私と君の不可解な関係について



「前からそうではないかと思っていたのだが……君は方向感覚が――その、なんだ……少々独特というか……」
「教授……優しさが痛いのではっきり方向音痴って言ってください……」
 どこか疲れたような顔をしたルキノの前で、彼女は心底申し訳なさそうな表情をしながら項垂れていた。
 たまにはフィールドワークでもと自然公園へやって来ていた二人だったが、途中で姿を消した彼女をルキノが探し回っていたのである。はぐれてしまったときは気付き次第この場所に集合しよう、と決めていた場所はあった。しかしルキノがいくらそこで待っていても彼女は現れず、仕方がないと探しに出た十数分後、園内地図の前で首をひねっている彼女を発見したのだ。
「お手間をかけさせてすみません……」
「まぁ君は学内でもたまに迷っているようですし……薄々気付いていながら策を講じていなかった私にも非はある」
「う……それも気付いてたんですね……」
 気まずそうに目を泳がせる彼女の様子がどうにもおかしくて、ルキノは小さく息を吐き出して笑う。自分が悪いと自覚しているために強く反発できない彼女は、それでも「笑わないでくださいよ」と不満げに頬を膨らませた。それがまた更にルキノの笑いを誘い、くつくつと抑えきれない声が漏れてしまう。「教授、」と非難がましい目を向けられて、ようやく彼は咳払いをした後に一息ついた。それでもまだ何かが彼のツボを刺激しているのか、口元に寄せられた手の下ではどうにか口角を下げようと格闘しているのが見て取れるし、肩も心なしか震えている。
「失礼、いやしかし――フフ、……君は可愛らしいな」
「か、かわ……!? も、もう! 教授! そんなので誤魔化されませんからね!!」
 語調こそ怒っているようではあるが、あちこちへ彷徨う視線とほんのり染まった頬が『これは照れ隠しだ』と主張しているようで、また零れ落ちそうになった笑い声をルキノはどうにか押し込めた。しかしやはり何かを感じ取ったのだろう、彼女はもう何も言わないでくれと言わんばかりの勢いでぷいと顔を背ける。
「早くさっきの場所に戻りましょう教授! まだほとんど何もできてないんですから!」
 私のせいですけど、と、ぽそりと付け加えられた台詞にまた彼が笑い出してしまったのは言うまでもない。
 結局、彼が落ち着くまでには数分を要し、彼女はその間何とも言えない表情でそんな彼を見ているしかなかった。
「はぁ……こんなに笑ったのはいつぶりだろうな」
「私も教授がそんな風に笑ってるの初めて見たんですけど……」
 納得いかないと言いたげな彼女に「自分でも何がここまでツボに入ったのか」と返すルキノは未だ楽しげに唇の端を持ち上げている。彼女の方はというと、珍しい彼の姿を見られたのは良いがその原因が原因であるため素直に喜べないようであった。
「ほら教授、行きましょう」
「ふ、……そちらは出口だが」
「…………」
 とにかくルキノの思考を自分から逸らしフィールドワークの方に戻したい彼女はルキノに背を向けて足早に歩き出すが、笑いを噛み殺したような声の後にかけられた言葉にぴたりと足を止めた。気まずさを覚えつつゆっくりと振り向けば、仕方ないなと言うような顔をしたルキノが彼女の方へ手を差し出している。
「いっその事、手でも繋いでおくかね?」
「っ、こ、子供扱いしないでください! ……でも、またはぐれたら教授のご迷惑になるので……その――っあ、」
 もごもごと口ごもっている彼女の手を取ると一瞬目が見開かれる。彼から目を逸らすようにぱっと俯いた彼女は、数秒の間を置いて控えめにルキノの手を握り返した。満足げに笑ったルキノはそのまま歩き出し、彼女もまたそれに合わせて足を動かす。
「これならはぐれることもないでしょうが、何かを観察している間はおそらくそちらにまで気が回らないのでね。その時は私の服の裾でも掴んでいるといい」
「……私が悪いのは分かってるんですけど……教授、私のこと何だと思ってるんですか……」
 がっくりと肩を落とす彼女を見下ろして、ルキノはまた小さく笑い声を上げた。

***


 ゲームから戻ってきてそのまま自室で仮眠を取っていたルキノは、ぼんやりとする頭に手を当ててひとつ息を吐いた。何やら懐かしさを覚える夢を見ていたような気がする。
(夢を見たのは随分と久し振りだな……)
 どんな夢だったかを思い出そうとするが、懐かしい感じがした、ということしか思い出せない。懐かしいということは、自分がまだ人間だった頃の記憶か何かだろうか。
 ルキノはこの身体になる前の記憶が所々抜け落ちていることを自覚していた。あるひとつの出来事があったとして、『結果は思い出せるがその過程で何が起こったのかが出てこない』といったものが多いのだ。順を追って思い返そうとしても、良くて曖昧な流れが分かる程度だ。その時に誰がいてどんなやり取りをしたのかというような詳細なことは不明なまま、途中で頭が痛くなり思い出すのを諦めてしまうことばかりだった。
 しかしこうして夢に見るということは、それらの記憶は自分の中から消え去っているわけではないようだ。ルキノはこめかみに指を置き、トントンと軽く叩く。そうしてみても失われた記憶が戻ってくるわけでもなく、彼はまた溜め息をついた。無くなった記憶が研究内容に関わるものでないと思われるだけいいかと割り切るしかない。
 コーヒーでも淹れようと立ち上がったその時、部屋に軽いノックの音が響いた。
「ルキノ、いるかい?」
「ジョゼフサン?」
 ドアの向こうから聞こえてきた声に、珍しいなと思いながらそちらへ向かう。
「疲れているだろうに、すまないね」
 いつも通りの柔和な笑みを浮かべているジョゼフはこちらに対して『悪い』などとは微塵も思っていないように見えたが、わざわざそれを指摘することもなくルキノは「何かあったんですか?」と問うた。
「君に客人が来ているみたいだよ」
「客? 私に?」
「ああ。サバイバーの……何て言ったかな。ほら、さっきのゲームにもいただろう。新入りの」
「……彼女が?」
 先程のゲームでの姿を思い出し、何故彼女がと首をひねる。ここに来て間もないサバイバーがゲーム後すぐハンターを訪ねてくるなど、これまで聞いたことがない。例え直前のゲームで最終的に見逃されたとしても、だ。
 だが、思い返せば彼女は自分と対峙した時どこか様子がおかしかった。もしかすると未知の生物に研究欲を擽られたのかもしれない。彼女が何を研究していたのかは知らないが、可能性としては考えられなくもないだろう。ゲームを放棄して興味の対象を観察したいという気持ちはルキノにもよく分かる。
「分かりました。私も彼女とは少し話をしてみたかったし、行きますよ」
「へぇ、君もサバイバーに興味を持つことがあるんだね」
 意外だとでも言うかのような表情を浮かべるジョゼフに自分は一体何だと思われているのかと思わなくもないルキノだったが、確かに研究対象以外への関心が薄いことは否定できないと言葉を飲み込んだ。それに、彼は『今はゲームなどしている場合ではない』とジョゼフや他のハンターにゲームを代わってもらったこともある。
そういったこともあって、おそらくハンター陣営に属する者の多くはルキノが特定の物事にしか興味を示さないものと認識しているだろう。
「興味というか……まァ、どういった分野の研究をしていたのかは気になりますし……」
「それだけ?」
「あとは……そうですね、先程のゲームで何かを言いたそうにしていたようなので、あちらから出向いて来たのならその内容を確かめても良いかなと」
 ジョゼフに返した言葉に嘘はない。ルキノは気になったことは確かめられる内に確かめておくべきであると思っているし――この荘園に関することはどうにも不可思議なことばかりであるためどうしても横に置いておきがちではあるが――実際にその考えのもと行動しているつもりだ。寝食すら忘れて熱中することも少なくなかったため、昔はその度に苦言を呈されていたものだ。
(――はて、面と向かって私を諌めてくるような人間など、身近に存在しただろうか)
「っ、」
 ふつりと疑問が沸き上がった瞬間、頭が締め付けられるような痛みを覚えた。
 部屋の鍵をかけようとしたところで手を止めて顔を顰めたルキノを、ジョゼフがどうしたのかと見上げる。
「ルキノ?」
「すみません、大したことではないのでお気になさらず。彼女がいるのは談話室ですか?」
「うん? ああ、そうだね。まだあそこにいるんじゃないかな」
「……先程から気になっていたんですが……ジョゼフサンは彼女に頼まれて私を呼びに来たのではないんですか?」
 不明瞭な答え方をするジョゼフに怪訝な面持ちを向け、ルキノが問う。彼女の性格を詳しく知っているわけではないが、先のゲームやその直前での言動を見た限り、人を呼びに行ってもらっている間にその場を離れるような人間ではないだろう。
 ジョゼフは彼の疑問に『なんだそんなことか』と言うかのような顔で軽く頷いた。
「その辺でうろついてたのをジャックが連れてきたんだ。横で聞いていて彼女が君に会いたがっているというのは分かったんだけど、ジャックがやたら彼女を構いたがっていてね……全然君を呼びに行く気配も無いし、ずっとあそこで騒がれていても困るし……」
 やれやれと肩を竦めるような動作をしたかと思えば「放っておいてそのまま部屋に戻ってもよかったんだけどね」と笑うジョゼフにルキノは思わず本日何度目か分からない溜め息をついた。おそらく彼女はこちらの陣営を訪ねてこようとして迷ってしまったのだろう。あれほど分かりやすいハッチの位置すらまだ覚えられていないのだ。普段生活している場所とはいえやたらと広いこの土地で、訪れたことのない場所に来ようとすれば迷うのは必然とも言える。
 しかし、この時間なら部屋の外で過ごしているハンターも少なくないだろうに、その中でもよりによってあの男と鉢合わせたのかとルキノは彼女の引きの悪さに感心すら覚えた。ジャックは一箇所に留まらずその辺りをうろうろしていることが多いため、他のハンターと比べると彼との遭遇率が高くなるのは確かではあるが。
「帰っていないといいんですがね。内容は知りませんが、彼女、初戦でジャックサンに随分と『遊んでもらった』ようですから」
「ああ、なるほど。やたらびくついていたと思ったらそういうことか。強めの口調で取り繕おうとはしていたみたいだけど、多分――いや、確実にばれてたね、あれは」
「……ジャックサンに対してそれは、最悪と言っていい振る舞いですね」
 苦々しい表情を浮かべるルキノに、ジョゼフは「やっぱり君もそう思う?」と言葉を返した。ジャックからしてみればそれは『好ましい』反応なのだろうが、彼と関わりたくないのであれば彼女のような態度を取るべきではないだろう。少なくとも、ルキノとジョゼフはそう考えている。
 やはり我慢できずに自室へ戻っているかもしれないなとルキノは軽く頭を振った。
「ここへ来たばかりだというのにジャックに目をつけられるなんて、彼女も災難だね」
 ジョゼフは「可哀想に」と口にしてはいるが、その表情を見るにおそらく大した哀憐の情は抱いていないであろうことが窺える。これは特別彼が冷淡なわけではなく、むしろサバイバーに対するハンターのスタンスとしては正しいとすらいえるものだ。そう思いながらも、ルキノは無言のまま僅かに歩幅を広げる。ゲーム外での殺傷がルール違反であるとはいえ、この場所へ来て早々大した知識もないうちに甚振られたハンターと相対するなどたまったものではないだろう。
 ルキノも普段であればあのような面子が揃ったゲームの後にわざわざサバイバーの相手をすることはないし、自分の知らぬところでジャックがサバイバーにちょっかいをかけていようが特に何を思うこともないのだが、どうにも彼女のことが気にかかる。何がこうも自分の気を引くのかを歩きながら考えるも、その理由は彼自身にも皆目見当がつかなかった。

***


「飲まないんですか? 折角貴女のために淹れて差し上げたのに。自慢じゃありませんが、私の淹れる紅茶は荘園一と言っても過言ではありませんよ」
「お気持ちだけで結構です。それよりも、早く魔トカゲさんを呼んでほしいのですが」
 ルキノとジョゼフが談話室に辿り着くと、そこでは優雅にティーカップを傾けるジャックとどこか緊張した表情を浮かべる女性が向かい合って言葉を交わしていた。
扉の開く音でそちらに目を向けた彼女は表情をぱっと明るいものに変えて立ち上がる。
「!」
「おや、折角彼女とティータイムを楽しんでいたというのに……珍しいこともあるものですね」
「サバイバーといえど、君の前であんな状態になっている女性を放っておくなんてさすがの私にもできなくてね」
 軽い口調でジャックに言い返すジョゼフを見下ろすルキノは彼のそれにただの気紛れだろうと心の中でつっこみを入れつつも、今回彼が自分を呼びに来てくれたことは確かであるので口を噤んだ。
 それにしても、と、こちらへ歩いてくる彼女の方に視線を移し、ルキノは頭に疑問符を浮かべる。ゲーム中も大概ハンターに向けているとは思えない目をしていたが、どうも先程より彼女から感じられる好意的な感情が強いように思える。
「……先程はどうも、研究者のお嬢さん」
「あ……えっと、こ、こちらこそ、見逃していただいて……ありがとうございました……恥ずかしながら、どこへ行けばいいのか本当に分からなくなってしまって……」
 ほんの一瞬、彼女の笑みが引っ込んだ気がしたが、照れたような表情を浮かべて頭を下げる様子からは好感情しか読み取れない。気のせいだったかと内心首を傾げるルキノの目の前で、彼女はジョゼフにも同じように頭を下げていた。
「あの、魔トカゲさんのことを呼んできてくださってありがとうございます。助かりました」
「そう頭を下げずとも構わないよ。気が向いただけだから」
 ひらりと手を振るジョゼフに彼女はまた感謝の言葉を重ねる。それを見たジャックが不満げに「私に対する態度と違い過ぎませんか」と口にしたが、ルキノもジョゼフも『自業自得だ』と言うかのように彼を一瞥しただけだった。
「それで? 私に何か用があったのでしょう?」
 目の前のソファに座るよう促しながらルキノが彼女にそう問うと、彼女は少しの間「あ、」「その」と口ごもりながら目を泳がせていたが、意を決した様子で彼の顔を見つめた。
「あの……魔トカゲさんは、ルキノ・ディルシ教授でお間違いないですか?」
「ウン?」
 彼女からの予想外の問いかけに、ルキノはぱちくりと目を瞬かせた。てっきり『魔トカゲ』の身体に関する質問が飛んでくるものだと思っていたため、虚を衝かれた彼は彼女の問いに即答することができなかった。
「あ、あれ……違いました……?」
 何も言わずに自分を見つめてくるルキノに不安を覚えたのか、彼女が心許なげに彼の様子を窺う。
「あァ、いや、まさかそうくるとは思っていなかったもので。すみません。ええ、私はルキノ・ディルシですよ。今は見ての通りこんな姿ですし、大学からは既に除名されているでしょうから『元』教授、ですが」
「やっぱり……! あ、あの、私――私、は……大学で、教授の…………教授に、お世話になって……」
 彼女はルキノの答えに目を輝かせたが、徐々にその勢いが落ち、声の大きさも小さくなっていく。彼女の言葉を受けたルキノはふむと顎に手をやってしばらく考え込んでいたが、彼女のことを思い出すことはかなわなかった。
「この身体になる前の記憶がどうにも曖昧というか――所謂虫食い状態になっていましてね。申し訳ないが、キミのことも抜け落ちてしまっているようだ」
「そう、なんですね……そうじゃないかなとは思ってました」
 眉尻を下げてどこか寂しげに笑う彼女に、ルキノはなんとも言えない気まずさを覚えた。記憶に関しては自ら捨てることを選んだわけではないし、思い出そうにも自分ではどうすることもできない。しかし、忘れられてしまった方からしてみればそんな事情は関係なく、ただ『忘れられた』という事実があるだけだ。
 記憶にない以上彼女と自分の間にどの程度の交流があったのかは分からないが、彼女の様子からするとそれなりに親しくはあったのかもしれない、と、ルキノはどこか他人事のように頭の隅で考えていた。
「ルキノさんも案外薄情なところがあるんですねぇ」
「茶々を入れるんじゃないよジャック」
 退屈になったのか、ジョゼフと共に紅茶を飲みながら二人を眺めていたジャックが揶揄うように言葉を発した。ちらりとそちらに目を向けたルキノは「まだ居たんですか」と面倒臭そうに口を開く。
「ジャックサンがいると彼女も落ち着かないでしょうし、早いところ自室に戻っていただきたいものですがね」
「そんなことありませんよ。ねぇ?」
「……」
 同意を求めるように小首を傾げるジャックから無言で視線を外す彼女を見て、ルキノはほら見ろと息を吐き出した。
「あー……キミ、コーヒーは飲めるかね? よければ私がついでに淹れてきますが」
「えっ、いえそんな、お構いなく……!」
「一杯も二杯も大して変わりませんよ。気にすることはない」
 二人を見てそういえば彼女に飲み物のひとつも出していなかったなと思い立ち、腰を上げる。ジャックですら紅茶を出すくらいはしていたのに、彼女の言動に気を取られたせいか、そちらにまで気が回っていなかった。ルキノの申し出に彼女は慌てた様子を見せていたが、彼が既に立ち上がっていたこともあってか「……じゃあ、頂きます」と頭を下げた。
「ン、それじゃあ少し待っていてください。……あァ、それと」
「?」
「私の記憶に無いとはいえ、知り合いを職業名で呼ぶのも何ですし……キミの名前をお聞きしても?」
「……! 、です」
 一応渡された資料にも名前は書いてあったし、そこまで物覚えが悪いわけではないが、ただでさえ自分は彼女のことを忘れてしまっているのだ。ここでもし間違った名前を口にするなどということをすれば更に彼女を傷付けてしまうだろうし、何より絶対にジャックが煩く絡んでくるだろう。そう考えたルキノは確認も兼ねて彼女に名前を尋ねた。
サン、ですね。覚えました」
 名前を口にして頷くルキノは、すぐに戻ると言い残して部屋を後にする。そんな彼の背中を、は寂しいとも嬉しいともつかぬような表情で見つめていた。

「お待たせしました」
 ことり、と小さな音を立てて目の前に置かれたカップを見たは、思わず目を丸くした。
「え……教授、これ、どうして……」
「私にもよく分からんのだがね。気付いたら『そう』なっていたんですよ」
 彼が傾けているカップと彼女の前に置かれているそれは大きさも形もまるで違うものであり、もっと言えば中身すらも全くの別物であった。
 ルキノが手にしているものは、他のハンターが使用している普通のカップと比べるとかなり小ぶりだ。漂っている香りだけでも濃厚だとわかるその中身を数口で飲みきると、ルキノはカップを置いて息をついた。
 視線をの前に置いたカップに移して、何故わざわざ別のものを、と何度目かの自問をする。ルキノの前にあるものより幾分大きめなそれを満たす液体は先程彼が飲んでいたものより見た目も香りも随分と柔らかい。ミルクが多めに加えられたカフェラテは、彼自身は普段あまり嗜まないものであったし、わざわざそれを用意するつもりもなかった。――はずなのだが。
 あまりにも自然に、当然のように自分の体が動いていることに気が付いたのは、全ての工程が終了してからだ。目の前に並ぶ大きさと中身の異なる二つの容れ物に、何故、とは思ったが、捨てるわけにもいくまいとそのまま持ってきたのである。
「……!」
 おずおずとカフェラテを口に運ぶを静かに見つめていると、不意に彼女の瞳が揺れた。
「これ――美味しいです。私が好きな味で……」
「それは良かった」
 口に合わなかったかとも思ったが、杞憂だったようだ。どこか嬉しそうに頬をゆるめてカップを傾ける彼女を眺めていると、横からまた外野の声が聞こえてくる。
「いつもあれ飲みたいって頼むと自分で作れって言うのに……」
「ルキノさんも女性には弱いんですよ」
「そこ、うるさいですよ」
 じとりと目を向ければ胡散臭い笑顔――かどうかは窺い知れないが醸し出す雰囲気が実に気に障る――が返ってきて、ルキノは鬱陶しげな表情を隠すこともしなかった。
 二人がまだ何か言っているのを聞き流しながら、自分の体が勝手に動いた謎について考え込む。もしかすると、以前彼女にこうしてカフェラテを振舞ったことがあり、それを頭のどこかで覚えていたのかもしれない。記憶になくとも身体が覚えている、というのもよくある話ではあるし、おそらくそういうことなのだろう。そこまで考えて、ルキノは納得したようにひとり頷いた。
 飲み物を口にしてある程度余裕が出てきたのか、は控えめに室内を見回している。サバイバーが住んでいる部屋を訪ねたことはないが、それと比べるとやはりこちらの家具の方が大きめだったりするのだろうか。彼女が手にしているカップひとつにしても、彼女らが普段使っているものよりも大きいはずだ。口に出すことはしていないが随分と飲みにくそうにしている。カップは自分が使ったのと同じ大きさのもので良かったかもしれない。そんなことを考えつつ、気になっていたことを問うためにルキノが口を開く。
「……そういえば、キミの職業は『研究者』とのことですが……何を専門としていたんです?」
「えっ? あ……そう、ですね。私も、その、爬虫類の生態とか進化とか……その辺りを……でも私はただの助手だったので、『研究者』なんて呼び名は烏滸がましいというか、なんだか恥ずかしいです」
「ほう、キミも爬虫類の研究を。それは素晴らしいですね。陣営は違えど、あの良さを共有し議論を交わせそうな者が増えたのは素直に喜ばしいな」
 の返答に、ルキノは嬉しそうに目を細めた。一人でも研究はできるが、好きなものについて語った際、それに対して同等の熱量で返してくれる相手というのは貴重である。こちらの陣営であれば日常的に爬虫類について語り合うこともできたのだが、と、ルキノは彼女がサバイバーであるのが惜しいとすら思った。
「……あァ。とすると、キミはもしかしてあれか?」
 『大学で自身との関わりがあった』『爬虫類の研究をしていた』『助手をしていた』という彼女から得られた情報をもとに、ルキノの中で一つの仮定が導き出される。そしてその仮定はおそらく正しいだろうと、彼は答え合わせをするように言葉を発した。
「トンプソン博士の助手を?」
 瞬間、の手からカップが滑り落ちた。床に転がったそれは割れこそしなかったものの、その身を受け止めた絨毯を残っていた中身で汚していく。
「っあ、ご、ごめんなさい……!」
 目を瞬かせたルキノは数秒の間じわじわと広がっていく茶色を見つめていたが、彼女の声にはっとしたように顔を上げた。
「大丈夫かね? もしどこかにかかったなら念の為冷やし、て――」
 彼女の服や身体にかかっていないかを軽く確認しながらの顔に視線を向けたルキノはぎょっと目を剥いた。「折角綺麗な絨毯なのに」「すぐ片付けます」と立ち上がるその動作は先程までとなんら変わりない。しかし、その声は頼りなく震えており、瞳は落ち着きなく揺れ、何より、その目からはぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていた。
「……え、あれ? なんで……やだ、そんなつもりじゃ……まって、ごめんなさ、っ……違うんです、こんな、……」
 ルキノの反応を見たの動きが止まり、ぺたぺたと自分の顔を触ったかと思うと、そこで自分が涙を流していることに気が付いたのか慌てて手で拭い始めた。拭ったそばから溢れてくる涙に半ばパニックのようになっている彼女をひとまず落ち着かせようと手を伸ばすが、はその手をすり抜けるように駆け出した。
「あ、おい、キミ――」
「すみませ、っ、……少し、席、外しますっ……!」
 部屋を飛び出していくの背中を目で追っていたジョゼフが「あの子、ちゃんと戻れるのか……?」と徐に立ち上がり、開け放たれたままのドアの方へと向かう。そのまま出て行ったかと思うと、ジョゼフは一分も経たないうちに戻ってきた。
「レオがいた……っていうか衝突事故起こしてたから任せてきた」
「珍しくサポートに入るのかと思ったらこれですよ」
「いいだろう別に。ああいうのはレオの方が適任だろうし」
 ジョゼフとジャックの声を聞きながらルキノは落ちたカップを拾い上げる。一体何故があんな反応をしたのか、ルキノにはまるで分からなかった。
 自分が彼女のことを忘れてしまったせい、というのも少なからず要因となってはいるだろうが、おそらく決定的だったのはそれではない。だとしたら、何なのか。考えても答えは出ず、様々な憶測が脳内で飛び交う。
「ちょっと、ルキノ。聞いてる?」
「……すみません、少しばかり考え事を……何でしょう」
「それ、そのままにしとくわけにいかないだろう。執事呼ぶなり洗濯場に持ってくなりした方がいいと思うけど」
 汚れた絨毯をジョゼフが指し示す。「そうですね」と頷くルキノに、ジョゼフは大きく息を吐いた。
「というか、君、さすがにあれはないだろう。確かに君は他人に無関心なところがあるけど……あんな風に無神経な言葉で女性を泣かせるような男ではないと思っていたよ」
「私も同意見ですね。女性を泣かせるなんて、見損ないましたよルキノさん」
「……少なくともジャックサンには言われたくないんですが」
 鼻歌交じりにサバイバーを甚振る男が何を、と反論こそしたが彼らの言うことも尤もであるためルキノは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。自分だって泣かせるつもりがあったわけじゃない、と心の中で言い訳をするも、結果的に泣かせてしまったことには変わりない。追いかけて謝ろうにも何が悪かったのか分からない状態で謝るなど言語道断であるし、どうしたものかと息を吐く。
 思索に耽っていたルキノだったが、ふと先程のジョゼフの言葉が引っかかり、彼の方へ目をやった。
「……ジョゼフサンは彼女がどうしてあんな反応をしたのか分かるんですか?」
「どうして、って……なんとかって博士の助手をしてたのか、っていうあれだろう? 泣くほどのことかは分からないけど、結構ショックだったんじゃないの?」
「あれが?」
 思いもよらないジョゼフの返答に、ルキノは面食らった。
「むしろ私はどうして君があんな結論に至ったのかの方が不思議だけどね」
 呆れた様子で首をゆるく振るジョゼフと、その横で「本当ですよね」と頷くジャック。どうやら二人の意見は一致しているようだが、何故彼らがその答えにそこまで自信を抱いているのかルキノにはいまいち理解できなかった。
「どうしてと言われましても……私のいた大学で助手をしていて、爬虫類の研究……といったらほぼ確実に彼の研究室の人間だろうと思ったのですが」
「そこなんだよね」
 ルキノの返答を聞いたジョゼフが食い気味に言葉を発する。一体どういう意味だと片眉を上げるルキノに対し、彼は心底不思議そうな面持ちを浮かべていた。
「爬虫類の研究をしていたのは君もなんだろう?」
「あァ、そういうことですか」
 彼が何を言いたいのかを理解したルキノはそんなことかと頷いた。それなら答えは簡単だ。
「私に助手はいないのでね。それは選択肢にすらありませんでしたよ」
「は?」
「え?」
「……ウン?」
 間の抜けた声が重なり、自分は何かおかしなことを言ったかと首をひねった。そんなルキノの様子を見たジョゼフとジャックは顔を見合わせて「これ、本気で言ってると思う?」「冗談ではなさそうですが……」などと言葉を交わしている。ジャックの言葉通り、ルキノには冗談を言ったつもりなど全くない。
「……ねえルキノ。私は君が自分の助手についての話をしているのを聞いたことがあるんだけど」
「……そんな、まさか」
「私も何回か聞いたことがありますよ。突然何も言わず一人にしてしまったのが心残りだ、みたいなことも言っていたじゃないですか」
 二人のその言葉に、ルキノは思い切り頭を殴られたような衝撃を受けた。
 彼らは一体何を言っているのだろうか。自分には助手がいた覚えも、そんな話をした覚えもない。二人で口裏を合わせているのかとも思ったが、嘘を言っている風ではないし、そんなことをして得られるメリットも無いはずだ。
 考えが纏まらず頭を掻き毟るルキノに視線を向けたまま、ジョゼフはどこか納得したように呟いた。
「ルキノにしてはあまりにも察しが悪いなと思ってたけど、そういうことか」
「先程からおかしいと思ってはいましたが……そもそも自分に助手がいなかったと思っていたのなら簡単に繋がらないでしょうしね。……しかし、ここではそういうこともできてしまうんですねぇ。どうやっているんだか」
「もう何があっても仕方ないと思えてしまうのが嫌だな……」
 感心したとでも言いたげな声のジャックに、軽く溜め息をつきながらジョゼフが首を振った。
 そんな二人を横目にルキノは未だ頭を抱えていた。彼らの言っていることが本当であるならば、確かに自分が言ったことはあまりにも無神経だっただろう。先程のジャックの発言と彼女の言動、そして自分の無意識下での行動を鑑みるに、おそらく良好な関係を築いていたはずだ。だが思い出せてもいないのに彼女に謝罪をしてどうするのか。それは傷口に塩を塗るだけではないのか。
 自分はどうするべきなのかとルキノが思案していると、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「はいはい、どちら様で――おや。これはこれは……」
「……」
 ジャックがドアを開けるとそこに立っていたのは先程出て行ったで、三人は大なり小なり驚いたような表情を浮かべた。泣きながら部屋を飛び出した彼女がすぐに戻ってくるとは彼らの誰も予想していなかった。
 目元はまだ赤いがの目には既に涙はなく、その手には何やら小さめの容れ物がある。「失礼します」と部屋に足を踏み入れたは傍に立っているジャックに警戒するような視線を向けつつルキノに近付いた。
「……先程は、すみませんでした。お見苦しい所を……」
「あ、あァ、いや……私もその、なんだ……気付かぬうちにキミを傷付けてしまったようで――」
 何を言えばいいものかと悩みながら口を開くルキノだったが、彼女が手にしている物の中身に気が付き思わず言葉を止めてしまう。後ろでジョゼフが「ルキノ……」と何か言いたげに名前を呟いたが、諦めたように息を吐いた。
 彼の目が自分の手元を凝視していることに気が付いたは、それを軽く持ち上げてみせる。容れ物の中にいたのは一匹のトカゲだった。
「部屋に戻った時にこの子と目が合って、私は駄目でもこの子はどうかなと……教授、この子のことは覚えてますか?」
「……覚えは、ある。……が、何かを忘れているような……」
 背中を丸めるように屈み、彼女の手の中にある透明な容れ物を覗き込む。自分を見つめる円らな瞳を見つめ返しながらルキノは記憶の糸を手繰った。
 確かにこの小さな生き物には見覚えがあるし、他の個体と一緒に世話をしていた記憶もある。研究室にいた中でも比較的新しい個体であったはずだ。しかしどうにも何かが抜けているような、と考えたところで、気が付いた。
「……名前か」
 彼らには名前を付けていたし、未だにその名前も覚えている。だが、今目の前で自分を見つめている彼だけは、どういうわけかいくら思い起こそうとしても名前が出てこないのだ。
「名前……」
 が何かを考えるような素振りをしたかと思うと、ルキノの目を真っ直ぐと見つめて口を開いた。
「この子の名前は、ルキノです」
「……は、」
 きょとんとしたルキノからこぼれた気の抜けた声と、吹き出しそうなのを紙一重で堪えたような二人分の声が重なる。
「る、ルキノっていうの? そのトカゲが?」
「ルキノさん、貴方、それはさすがに……笑えない、ですよ」
 平静を装おうとはしているが二人とも明らかに声が震えているし、ジャックに至っては相当堪えているのか立てた襟の先までもが小さく揺れている。現在のルキノの状況を考えると実際あまり笑えないということは二人も分かっているようだったが、だからこそ余計におかしなところが刺激されたのかもしれない。
 当のルキノは特に気を悪くした風でもなく呆れたように二人を見たかと思うと、やれやれと息を吐いた。
「楽しそうなところ大変申し訳ないんですがね。さすがに私も飼育しているトカゲに自分の名前をつけるなんて酔狂な真似は、しない――」
 不意に何かが脳裏を掠め、ルキノは言葉を飲み込んだ。ほんの一瞬浮かんだそれは、おそらく誰かと自分の会話であった。今なら何かを思い出せるかもしれない、と、既にほとんど消えかけているそれを逃がさないよう手を伸ばす。
「っ、……」
 ずきずきと痛み出す頭をおさえながら、零れ落ちた記憶の欠片を少しずつ拾い集める。記憶を取り戻そうとすればするほど頭の痛みは増していき、地面が揺れている錯覚すら覚えた。先程までであればこれは現在の自分に必要のない記憶だろうと諦めていたところだが、今は何より真実が知りたいのだと、ルキノは考えることをやめなかった。
「教授……?」
 目を閉じ眉根を寄せているルキノをが心配そうに見上げる。
「……最近少し頭痛がしてね。なに、いつものことだ。問題はありませんよ」
「いつも、って……教授、まさかここでも寝ないで研究とか、危ない実験とか……してませんよね? 食事も睡眠もきちんと取ってますよね?」
 ルキノの言葉を受けたの表情に、どこか訝しげなものが加わった。そんな彼女の様子にひどく懐かしさを覚え、ルキノは一瞬の間痛みを忘れた。
 ――そうだ。昔もこうしてよく注意を受けていたし、半ば無理矢理食事や睡眠をとらされたこともあった。口頭での注意だけだったのが実力行使に出るようになったのはいつからだったろう。確かあれは彼女がまだ学生だった頃ではなかったか。数日間寝ずにいたのだが気が付けばソファの上で横になっていて、傍らで本を読んでいた彼女が顔を上げたと思えば怒ったような困ったような表情で「おはようございます」と口にして。
 少しずつ、頭の中の空白が埋まっていく。ひと時引いた頭痛は再び主張を始め、増えていく情報と共にルキノを襲う。痛みのせいか視界もぼやけ、遂には彼女の表情も窺えなくなってしまった。
 さすがにまずいか、と、支えになるものを探すために視線を巡らせるルキノの目に、ひとつだけはっきりと映り込むものがあった。彼女が連れてきた、一匹のトカゲ。彼は先程と変わらずじいっとルキノのことを見つめている。どこか眠たげにも見えるその瞳とルキノの瞳がかち合った瞬間、彼は視界が閃光で埋め尽くされたような感覚に陥った。
「……ルカだ」
「え、」
 無意識に、言葉が滑り落ちていた。
「その子の名前は、ルカだ。ルキノじゃない。……キミにつけてくれと、私が頼んだ」
 確認するように言葉にしていくと、ひとつひとつ記憶が鮮明になっていく。思い出すことを邪魔するかの如く続いていた頭痛も、もう無駄だと悟ったのか少しずつその勢いを弱めている。
 そうして痛みが綺麗に消えた頃、穴だらけだったルキノの記憶はすっかり元に戻っていた。記憶を取り戻すことができた安心感と彼女への罪悪感を心中に抱きながら、ルキノは大きく見開いた目でこちらを見つめているを見下ろす。
 ――間違いない。彼女は、私の人生においてただ一人の、優秀な助手だ。
「きょ、うじゅ……?」
「……先程のゲームでの行動にも納得がいきました。そういえば、キミは方向感覚が少々独特でしたね――クン?」
「っ……!!」
 の目から涙が溢れ出し、彼女の頬を伝う。それを見たルキノは眉尻を下げ、そっと指の背で彼女の涙を拭った。
「……すまないな、クン。私の不用意な発言でキミを傷付けてしまった。」
「っ、そんな……! 教授が謝ることじゃ、ない、ですっ……」
 涙は止まることなくルキノの指を濡らしていく。指ではどうしようもないなと彼はポケットからハンカチーフを取り出して優しく彼女の目元に押し付けた。
「……キミに泣かれると、私はどうしたらいいのか分からなくなってしまうな」
 困ったようにそう呟くルキノの表情は穏やかなものであり、瞳は優しげに細められている。
 髪の毛を引っ掛けないように気を付けながら彼女の頭を柔らかく撫でる彼に目を丸くしたジャックとジョゼフは、しかし彼らに声をかけるでもなく丸くなったままの目を合わせたかと思うと「……とりあえず執事呼んで絨毯どうにかしてもらう?」「そうしますか」と頷き合った。

***


「……ではキミは、私のことを探してここまで来たというのかね?」
「えっと、その、はい。そうなりますね」
 ようやく落ち着いたと向かい合って座るルキノは、自分がいなくなってからのことを大まかに聞いて心底呆れたような表情を浮かべた。
「こんな碌でもない男の為に居場所を捨てずともよかっただろうに……」
 あの場所には女性を軽視する者も多かったが、彼女なら自分がいなくともやっていけていただろう、とルキノは考える。そんな彼に、少しむっとした様子では口を開いた。
「私は、教授の助手だからやりたいと思ったんです。もし教授が戻ってきたらと思って残らせてもらってはいましたけど……トンプソン教授の助手なんて、もう二度としたくありません」
 ぼそりと付け加えられた彼女の言葉に、思わず目を瞬かせる。
「……キミが彼を苦手としているのはなんとなくわかっていたが……それほどまでとは思わなかったな」
「逆に私はどうして教授が普通に話題に出せるのかが――いえ、いいです。やめましょうあの人の話は」
 はあ、と息を吐きながら、はゆるく頭を振る。
 彼女はあまり人を嫌うことがない人間だと思っていたが、どうやらトンプソン博士は別らしい。彼は自分のことをあまり良く思っていなかったようだから、助手である彼女もそれで何か不快な思いをしたことがあるのかもしれない。彼女の言葉から推測するに、自分が失踪した後はトンプソン博士の助手として働いていたのだろう。その時に嫌なことがあったという可能性もある。
 何にせよ、彼女には申し訳ないことをしたなとルキノは心苦しさを覚えた。何を思ったところで今更どうすることもできないのだが。
「……でも、良かったです。教授がお元気そうで……本当に心配したんですからね」
「元気……いや、まァ、元気といえば元気ではあるが……キミ、少し順応が早すぎやしませんか?」
「?」
 問われた彼女は何のことだと首を傾げている。一番初めにそのことについて聞かれるだろうと考えていたルキノとしては、彼女がすんなりと自分の存在を認め、自然に受け入れているのが不思議でたまらなかった。
 普通なら、いくら同姓同名といえど人間である『ルキノ・ディルシ』と魔トカゲの『ルキノ・ディルシ』が同一人物であるとは考えないだろう。ましてや名前も知らなかったであろう先程のゲーム中に過去の自分と現在の自分を結び付けるなど、勘が鋭いなどという次元の話ではない。
 それに、だ。
「いくら以前近しい存在であったとはいえ、こんな異形の姿……恐ろしいとは思わんのかね? しかも私は先程キミのことを襲いもしたでしょう」
 ルキノとしては、彼女に拒絶されなかったことには心底安堵している。しかし、例え過去親しくしていた人間が目の前の異形と同一の存在であると気が付いたとして、それを何でもないことだと言えるとは到底思えない。そうは言っても実際彼女は「ああ、そのことですか」などとまるで今言われて初めて気が付いたかのように頷いているのだが。
「そのお姿については、正直驚きはしましたけど……怖いとは思いませんよ。むしろもっとしっかり観察させてほし――こほん。すみません、なんでもないです」
「……キミ、やはり持ち上げられた時少し喜んでいたでしょう」
 そうではないかと考えてはいたが、今の発言を聞いた限りあの時感じた違和感は間違っていなかったらしい。あの状況でこの身体に興味を示すとは、やはり彼女は自分と性分が似ている。結果はどうあれ抜け出そうと抵抗をしたり、傭兵の指示に従ったりしてきちんとゲームをしようとしていた辺り、彼女の方が余程理性的ではあるが。
「なんのことですかね! 私にはさっぱり! ええとそれで、あとは教授が私を襲ったってことについてでしたっけ!」
「……相変わらず、話題の逸らし方が下手ですね」
「もう! 笑わないでください!」
 喉を鳴らして笑うルキノに顔を赤くして言い返すは、「ゲームでの話ですけど、」と半ば無理矢理話題を本来のものに引き戻した。
「あれはそういうルールなんだから仕方ないと思いますし、教授は最終的に私のことを見逃してくれたじゃないですか」
「私には逃げる意思のない者を痛めつける趣味はないのでね」
「……ナワーブさんは『多分大丈夫だ』って言ってくれてたんですけど、初戦のこともあったので、正直不安ではあったんです。……でも、声を聞いて、教授かもしれないと思って……嬉しかったですし、教授は変わらずに優しくて……よかったな、と」
 彼女の言う『初戦』の内容をなんとなく察しているルキノは、未だ自室に戻らず紅茶を飲みながら喋っている二人の片方に呆れを含んだ視線を向けた。
「……これは他のハンターたちの名誉の為に言っておくのだが……あの状況ならばサバイバーに慈悲をかけるハンターもいますし、かけないハンターもいます。ただ、慈悲をかけないとは言ってもいたずらに命を弄ぶような真似をする者は『元人間のハンターには』いませんよ。一人を除いては」
「一人を除いては……」
「どうしたんですかお二方。突然私にそんな熱視線を送ってきて」
 二人の視線を受けたジャックは飄々とした態度でそれを受け流す。は彼が手を振ってきたのに苦々しい表情を浮かべてルキノの方に顔を戻したが、ルキノは一度大きく息を吐いたかと思うとゆっくり立ち上がり、ジャックの方へと足を向けた。
「……そういえばジャックサン。アナタには聞いておきたいことがあったんでした」
「おや、なんでしょう」
「前回のゲームで彼女に――私の助手に、何をした?」
 目を細めてジャックの顔を覗き込むように背を屈めるルキノの声は普段より少し低く、これはあまりよろしくないと踏んだのかジャックはふいと顔を背けた。
「別に、私がゲームで何をしようとルキノさんには関係ないでしょう?」
「ええ、その通りですね。だが、大切な助手を不必要に傷付けられて黙っているわけにもいくまい」
「……さっきまで彼女のことなんて忘れてた癖に何を――痛っ!? ちょっとルキノさん? やめてくださいよ、服が破けるじゃないですか」
「黙れ。元々アナタのやり方には思うところがあったんだ。あちらでゆっくり話し合うとしようじゃァないか」
 小さく呟かれたジャックの言葉を拾い上げたルキノは思わず彼の後ろ襟辺りを掴んでいた。騒ぐジャックをものともせずそのまま引き摺るようにして、簡易キッチンへと繋がる扉へ向かう。
 つい先程まで彼女のことを忘れていたのは事実だし、サバイバーである彼女のことをゲーム中痛めつけたからといってジャックにどうこう言う権利がハンターである自分にはないということも頭では理解している。だが、思い出してしまったからには何か言っておかねば気が済まない程度には、ルキノにとって彼女の存在は小さくないものであった。
 ゲームでは基本的に手を抜かないつもりではあるが、ゲーム外では彼女はサバイバーである以前に自分の助手なのだ。元、ではあるが。
「ちょっと本当に服から嫌な音がしてるんですけど離してくださいよねえ力強すぎじゃないですかルキノさん」
「抵抗しなければいいだけの話だと思うがね」
 どうにかルキノの手から抜け出そうとするもかなわず、どうにかしてくれと言うような視線をジョゼフに向けたジャックだったが、ジョゼフはというといつのまにかティーカップを持ってが座っているテーブルに移動し彼女と言葉を交わしていた。「ジョゼフさんの裏切り者!」と声を上げながらキッチンへ消えていくジャックに、ジョゼフは笑顔で軽く手を振りながら「裏切るもなにも、私は君の味方になった覚えはないけどね」と言うだけだった。
「いやあ、ルキノがトカゲのこと以外であんなに感情を露わにするとはね。珍しいものを見たよ」
「教授、完全にお説教モードでしたね……教授のお説教、なかなかきついんですよねえ……」
「……君、なんか嬉しそうじゃない? ジャックが痛い目にあってくれそうだから?」
「えっ!? ち、違いますよ! そうじゃなくて……」
 ジョゼフの言う通り、の表情はゆるんでいて、頬もほんのり色付いている。自分のことを痛めつけたジャックがルキノに説教をされるのが嬉しいのかと考えて問うたジョゼフだったが、どうやら違うらしい。では一体何故なのかと首を傾げる彼に、どこか照れたようにが口を開いた。
「その……『大切な助手』っていうのが……嬉しくて……」
「……ルキノも大概だけど、君もまあまあ変わってるな……」
 思ってもみなかった返答にジョゼフは思わず呆れたような声をこぼした。
 確かに、わざわざ職を捨ててまでルキノを探しにこんなところまでやってくるくらいなのだから、彼女は相当ルキノのことを好いているのだろう。それがどういう意味合いのものなのかまではジョゼフには判別がつかないし関係もないのだが。
 ルキノものことを悪くは思っていないようだし、彼女の記憶を消されていたのもその辺りが原因なのだろうかとジョゼフは推測する。ルキノがそれくらいでゲームの手を抜くとは思えないし、そもそも気分によっては初めから真面目にゲームをしないというハンターもそれなりにいる。かくいうジョゼフもその一人だ。そんな有様であるので、今更ハンターと縁が深いサバイバーが増えたところでどうということもないだろう。そもそも、サバイバーと少なからず交流を持っているハンターだって存在するのだ。果たしてわざわざ記憶を消す意味はあったのだろうかと彼は内心首をひねる。
 しばらくそうしていたが、まあそんなことはどうでもいいか、と思考を放棄したジョゼフはテーブルの上に置かれた容れ物に目をやった。
「……というか、さっきこのトカゲのこと『ルキノ』って言ってたけど……なんか本当に似てない?」
「わかりますか!? そうなんですよ、教授は別に似てはいないだろうって言うんですけど特にこの目元というか目つきというか雰囲気というか、とにかくこのちょっと気怠げな感じが本当に似てると思うんです……! あと、この子は動きも他の子たちより少しゆったりしてて――」
 何の気なしに口にした言葉に反応したが突然怒涛の勢いで目の前のトカゲについて語り出し、ジョゼフは目を瞬かせた。いつだったか、ルキノにも同じように口を挟む隙もなく爬虫類について語られたなと思い出し、一緒に過ごしているとここまで似るものなのかとジョゼフはひっそり笑う。彼女も爬虫類が好きなようだし、元々似ているところもあるのかもしれないが。
 ルキノが戻ってきたら更にヒートアップしそうだと考えつつティーカップを傾ける彼は彼女の話を半分聞き流しながら相槌を打つ。
 それほど大きな声を出しているわけでもないだろうに、扉一枚隔てたキッチンからルキノの低い声と言い訳を重ねるジャックの声が聞こえてくる。他のハンターにあれほど分かりやすく怒りをぶつけるルキノもそうだがあそこまでたじたじとなっているジャックも珍しい。あの男が他者に言われた程度で自らの行いを反省するなどということはまず無いだろうが、説教をされて疲弊している姿というのもなかなか見られるものではない。
 出てきたら何と言葉をかけてやろうか、と再びこぼれそうになった笑い声を飲み込みながら、ジョゼフはキッチンの扉が開くのを待ちわびていた。





2020.03.16
修正 2020.07.05

title:レイラの初恋



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