しあわせなゆめ



 赤い雨が降っている。
 いつもとは種類の違う喧騒に包まれた学び舎は、酷く落ち着かない空気で満たされていた。誰もが声をあげ、走り回り、世界の無事を祈っている。そんな中、私はクリスタリウムの奥に立っていた。ここでは外の喧騒が嘘のように息を潜め、普段と同じかそれより少し重く感じる静けさだけがその存在を主張していた。
「……行くんだね」
「ああ」
 向かいに立っているのは友人であり、幻とも言われた0組に所属しているキングだ。彼は――0組は、これから私たち普通の候補生には想像もつかないような場所に行って戦ってくるのだという。これまで様々な戦術や魔法を学んできたというのに、結局大事な場面では彼等に頼るしかないのだと思うと、なんとも言えない気持ちが靄のように心を覆っていくような気がした。
「帰って、くるよね?」
「……ああ」
 少しだけ置かれた間に、きっとそれは難しいことなのだということを悟ってしまう。けれど、それでも、私たちは黙って見ていることしか出来ない。いくら知識や戦術を身につけたからといって、0組の人たちと比べたら赤子も同然だ。彼等のように特別な何かを持っているわけでもない。秀でた才能もない。ただの、無力な子供だった。
「あのね、キング。私、言っておきたいことがあるの」
「何だ?」
 声が震える。時間を確かめる為に壁掛け時計に向いていた彼の目が私を映す。ああ、時間がない。もっと彼と一緒にいたいけれど、迫る刻がそれを許してはくれない。
「私、わたし……キングと、ずっと――」
 零れそうな涙を堪えながら、叶うことのない願いを吐き出した。ぼやけた視界では彼がどんな表情をしているのかなんてほとんど分からなかったけれど、多分、いつものどこか困ったような呆れたような、そんな顔をしているのだろうと思えた。

***


「――、おい。大丈夫か」
「……ん、キン、グ……?」
 朦朧とする頭を起こすと、目の前にはキングの顔があった。その瞬間、何故か胸が締め付けられるような感覚に陥る。
「酷く魘されて、……泣いているのか?」
 若干焦った様な表情で私の目尻に指を這わせる彼に、どうしようもなく安心してしまう。泣いている、と言われ自分でも顔に手をやってみる。確かに頬が濡れているし、視界も少し滲んでいるような気がするが、どんな夢を見ていたのだったか。あまり良くない夢だったことは確かだ。
 具合が悪いなら午後は休むか、と聞いてくる彼に大丈夫だと返事を返し、机に突っ伏していたことで固まってしまった肩を回す。クリスタリウムで寝てしまうなんて、某優等生達に見られたら説教モノだろう。本が嫌いというわけでもないのにどうしてだろうと考えたが、きっと任務続きで疲れていたのだろうと自己完結した。午後は確か座学だったはずだ。今日は任務も入っていないし、帰ったらゆっくり寝よう。そう決めて立ち上がる。
「っていうかもうこんな時間! 置いていってくれてもよかったのに!」
「……さすがにそこまで薄情ではないぞ」
 小さく溜め息を吐きながら言うキングも立ち上がり、二人で教室を目指す。
「そういえば試験が近いんだよねえ……やだなあ」
「お前はそこまで勉強が出来ないわけではないだろう」
「自分の好きなとこだけね」
 そんな他愛のない話をしながら歩いていると、同じクラスのナギが前を歩いているのが見えた。驚かせてやろうとこっそり近付き肩に手を乗せようとしたところでいきなり振り向かれ、変な声が出てしまった。そんな私を見てナギは心底おかしいというように笑うしキングはやれやれとでも言いたげな顔で息を吐くものだから段々恥ずかしくなってきて、それを隠すようにナギの頭を叩いておく。
「いってえ! 何すんだよ!」
「うるさい笑うな!」
「なんだよ、最初に驚かそうとしてきたのそっちだろ? まあ気配消してないしバレバレだったけど。お前それでも9組かよ」
 はっ、と鼻で笑いながら言ってくるナギはいつ見ても腹立たしい。いつかどうにかしてこいつを見返してやろうと考えているのだが、この分だとそれはずいぶん先になりそうだ。
 そうこうしているうちに始業を告げる鐘が鳴り始める。やっべ、と呟いたナギはさっさと先に行ってしまったが、私はそこまで急ぐ気にもなれなかったので後ろを歩いているキングに声をかけた。
「キング、私ちょっと遅れてくから先行ってていいよ」
「……いや、いい。俺も遅れていこう」
 珍しいその答えに驚いたが、私のペースに合わせて歩いてくれているので聞き間違いではないだろう。普段はそこそこ真面目に授業を受けている(はずの)キングが自分に合わせてくれているという事実に申し訳無さはあるが、どうしようもなく嬉しさを感じてしまう。
 ゆっくりと教室へ向かう私たちの間に会話は無い。しかし二人を包んでいる空気はとても心地良いもので、ずっとこの時が続けばいいのに、なんて、らしくもないことを考えてしまった。

***


『――きっと、帰ってくる。だからそんな顔をするな』
 脳内に響く聞いたことのない、でもどこか懐かしい声。顔も分からないのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。自分のノーウィングタグと一緒に繋がれた知らない名前のタグが、どうしてこんなに愛おしく感じるのだろう。
「…………うそつき」
 一筋の涙と共に言葉が零れる。窓から吹き込む風に乗って、すまない、と、知らない誰かの懐かしい声が聞こえた気がした。
 頬を伝う雫を拭ってくれる誰かは、もういない。





2014.05.19
サイト掲載 2014.10.05



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