サンタクロースはやってこない



 船上での出来事から数日。見習いは今日もせっせとフロアの掃除に励んでいた。未だに疲れが取れきっているとは言えないのだが、仕事は仕事だと諦めの念を抱きつつモップを動かす。
 一通りモップをかけ終え、何か飲み物でもとカウンターの中で何か作業をしているマスターに近付く。ふと、見習いの耳に先程から席の隅に座りグラスを傾けている女性の声が届いた。
「クリスマスは……今年も……やってくる……」
 闇。その歌声を認識した見習いの脳内に浮かんだのはその一言である。
 一歩外に出ればどこもかしこもイルミネーションのきらめきに満ち溢れ明るいクリスマスソングが鳴り響き恋人たちは寄り添い歩いている。そんなこの時期特有の夢やら希望やらを一切排除した、ただひたすらにどんよりと淀んだ空気がそこには流れていた。
「……マスター」
「……何も言うな」
 掃除をしていたときはあまり目に入れないようにはしていたが、さすがに気になってしまう。見習いが口を開くとマスターは溜め息をつきながら目を逸らす。そんなやりとりをしている間にも世界中の全てを呪ってやると言わんばかりの歌声は続いていた。
「楽しかった……出来事を……消し去るように……」
「いや口出さない方が無理でしょあそこだけ瘴気漂ってますよ最早腐海ですよあの一角」
 グラスの中身をあおる姿を二人は呆れ半分心配半分の表情で見守る。見習いの言うとおり、彼女の周囲だけ色がくすんでいるような濃い霧が立ち込めているようなそんな錯覚を覚え、マスターはまたひとつ息を吐いた。
「ったく……あいつが少しでも顔見せりゃあこうはならなかったのによ……多分」
 それでも多分なのか、と心の中で呟くと、見習いは先日のことを思い出しどこか遠いところを見るような目になった。
「アダムさんも大概アレだったけどさんもなんていうか……だいぶ……」
「まぁ……方向性は違うが似たようなもんではあるな」
 船の上で自分と行動を共にしていた彼を見て感動のあまり倒れた青年。彼の反応もなかなか衝撃的だったが今目の前にいる彼女も相当なものである。あの人も罪な男だ、と今どこにいるかも分からない彼に思いを馳せた。
 マスターにとっては少し歳の離れた妹――初めて紹介された時に「娘の間違いじゃ」と口にした見習いは容赦のない拳骨を食らった――のような存在であるため、それなりに心配しているのだろう。複雑な表情でに目をやり、軽く鼻を鳴らした。
「俺としちゃあには普通にその辺の若いヤツに目を向けて欲しいもんだが」
「……あのー、ずっと気になってるんですけどあの人の歳って」
「聞くな。俺が悲しくなる」
「あぁ……」
 半ば食い気味に返ってきた答えに見習いが同情したような瞳をマスター向ける。彼に、というよりは彼の頭に、であるが。
「おい。そこであからさまに俺の頭を見るんじゃねぇ」
 それに気付いた彼はべちりと見習いの頭を叩く。「いてっ」という声にむしろこれくらいで済ませたことに感謝しろと睨みをきかせた。が、このせいでハゲたらどうしようなどという呟きが聞こえてきたためもう一発手刀を叩き込み、彼は痛みに悶える見習いを見て満足そうに笑った。
「というか、あいつがああなってんのはお前にも原因があるんだからな」
「えぇ? 自分何かしました?」
 突然告げられたその言葉に見習いは思わず目を丸くする。確かに二度彼に会いはしたがそれは自分だけではないし彼女をあんな状態にさせるほどのことをした覚えはない。
 冤罪だと訴えてきそうな彼をマスターは呆れたように見やる。
「そりゃあお前……前ん時といい今回といい、べったりだったらしいじゃねぇか」
「言い方! ……いや、まぁ間違ってはないですけど」
 変な誤解を生みそうな言い回しはやめてくれと寒さのせいではない鳥肌の立ちかけた腕をさする。ほぼ離れずに行動していたことは認めるが、べったりという表現はいただけない。
 マスターは顔を歪める見習いに構わず、「いいか」と続ける。
はあいつに会いたくて会いたくてこの10年以上全身マナーモードだったんだよ」
「言いたいことは分かるけど深刻さが全く伝わってこない」
 どこかで聞いたようなフレーズだがそんな表現ではなかったはずだ。もっと他になかったのかと思わざるをえない。
「それがお前……なぁ?」
 分かるだろと言いたげに細められた目に、抱く必要のないはずの後ろめたさを感じ口籠る。
「た、確かにほぼずっと付きっきりだったしやたら所有物的な言動されたし必要になったら引っ捕らえにくるみたいなことは言われましたけど……」
「役満だろうが」
「大前提として、自分は男ですからね?」
 そう、やり取りだけを見れば若干『これは』となるところではあるが、そもそも見習いは男だ。そしていくら頗る顔の良い相手だったとしても、「俺のものだ」と男に言われてときめくような趣味を彼は持っていない。思ったとしても「こんな台詞を恥ずかしげもなく言えてしまう人もいるんだな」くらいである。誓って心を揺らしたりしていない。そう切に訴える。
 マスターは逆に疑ってしまうような必死さだなと思いもしたがゆるく首を振るだけに留めた。
「それにしたって、だ」
「ほんっっっとうに……見習いくんなんなの…………」
 いつの間に移動してきたのか、突如として見習いの後ろに現れその肩に腕を回す。驚いて顔を彼女の方に向けた彼はそこに漂う空気に思わず顔を顰めた。
「わ、さ――酒くさっ! 空気で酔える!」
 あまりにも濃いアルコールの気配に見習いは少し距離を取ろうとするが、存外彼女の力が強く断念した。下手をすれば自分も酔っ払ってしまいそうだと呼吸を浅くしようと試みたものの、無駄な足掻きだとすぐに悟りされるがままになる。
 地に足がついていない様子の彼女を見てマスターがやれやれと肩を竦めた。
「お前なぁ……昼間っからそんなガバガバ飲みやがって……その辺で吐くのだけは勘弁してくれよ? まぁ吐いたところで開店までに掃除すんのは見習いだから俺は構わねぇが」
「こうして社畜の心はすり減っていくんだなぁ」
「自分の限界はちゃんと把握してますのでぇ……」
 はへらりと笑いグラスに浮いた氷をからりと鳴らしてみせる。彼女の座っていた場所に置いてあるボトルがほぼ空なのを確認した見習いは口元を引きつらせた。彼が先程目にした時は半分以上残っていたはずなのだが、彼女はこの数時間足らずであの量を消費したうえまだ飲む気でいるらしい。
「すごい……信頼性がマスターの頭髪並……」
「減給」
「これ以上何を減らすって言うんですか。ガリか、ガリなのか」
 ただでさえ訴えたら勝てそうな労働環境なのに、と深く息を吐こうとした見習いの両頬ががしりと掴まれる。間の抜けた声を上げた彼の顔を、頬を掴んでいる張本人であるが覗き込んだ。
「ねぇ見習いくんどうやったらチューナーになれるの……」
「いやぁそれは自分に聞かれても、ってちょっとちょっと待って近い顔が近いですあっこれマジで酔うぞ!!」
 未成年飲酒、ダメ、ゼッタイ。よく聞くその言葉が彼の頭の中を駆け回る。いやでもこれは飲酒のうちには入らないからセーフな気がする、などと考えたがそんなことを言っている場合かと自分で自分につっこんだ。
 酔いのせいか潤んで熱を孕んだの瞳が見習いのそれを映す。呼吸が感じられるほどの距離に彼は戸惑い視線を外したが、はそれを気にした様子もなくじいと見つめ続ける。
「やっぱり眼? 取り替えればどうにかなる?」
「ならないし出来ないしまずその発想が怖い!! ちょっとマスター助けて!! ヘルプ!!」
 ゆっくりと、擽るように頬を這う指にひゅっと喉が鳴った。突拍子もないことを言ってはいるがその目があまりに真剣な色を宿しており、見習いは若干の恐怖を覚えマスターに助けを求める。
「無理だな」
「諦めが早すぎる!」
 せめて何かしらの努力はしてほしかったと肩を落とす。しかし誰かの助けを得る前にするりと彼の顔を固定していた手は離された。ほっとしたのも束の間、その手はそのまま彼のパーカーの腹辺りを握りしめ、額は彼の肩に押し付けられる。
「っ……私にも、そういう力があれば良かったのかなぁ……うぅ……」
「うえっ!? ちょ、ちょっとさん泣かないで……っていうかほら飲み過ぎですってお水飲みましょう!」
 ぼろぼろと涙を零し始めたの背中を焦ったように撫でる。ぱっと見セクハラだとか何とかマスターが言っている気がしたが構っている余裕はないので聞こえていない振りをした。
「お水……」
 水を飲むよう促せば、見習いの横の椅子に腰掛けた彼女は置いていたグラスを手に取りその中身を勢いよく嚥下していく。
「それは水割り!! しかもそれ8割アルコールでしょうが!! 作るの見てましたよ自分は!!」
 ほとんど薄められていない琥珀色の液体が入ったそのグラスを見習いは慌てて取り上げる。この一瞬で中身がほぼなくなっていることに彼は若干引いた。三日三晩飲まず食わずで砂漠を歩き回った遭難者か、と心の中でつっこんでしまったのも仕方がないだろう。
「……ツッコミしつつも隙あらばボケる見習いがここまでツッコミに徹するのも珍しいな」
「冷静に状況把握してないで!」
 特に手を貸す様子もなく観察しているマスターに勘弁してくれと項垂れる。一応水差しとグラスは用意してくれているが彼女をどうにかしてほしい。疲れた表情を隠すこともなく額に手を当てる。
「ぅ、ぐす……見習いくんの泥棒猫ぉ……」
「わーその台詞一度は生で聞いてみたかったやつー! でもそれは自分に向けてじゃない! そして断じてそういうアレじゃない! マジで!」
「だっ、て……見習いくんばっかり……ずるい……ぅ……」
 投げつけられた台詞は昼のドラマで聞くようなもので、こんな時でなければ、というか向けられたのが自分でなければちょっとテンションも上がっただろうが残念ながら今は少しも楽しめる状況ではない。まさに修羅場である。見習いは彼女の手元に刃物が無くて良かったと微妙にずれたことを考えて無理矢理自分を安心させる。
 ぼたぼたと落ちる涙を拭ってやろうとしてもぺしりと跳ね除けられ、彼はどうしたものかと頭を掻いた。
「あぁもうせめてあの四バンドのメンバーの誰かがいれば矛先がもう少し分散――いやメンバーによってはこれ以上の惨事になるな……不穏なことを言うのはやめよう」
「見習い、知ってるか。世間ではそういうのをフラグっつーんだ」
「やめてくださいほんとに」
 まだ真琴やマイリー辺りのそれなりに冷静でつっこんでくれる人物なら良いかもしれない。だがブレイストのメンバーでもやって来た日にはきっともう収集がつかなくなるだろう。それは避けたい。本当に。
 フラグは立てるんじゃない折るんだと自分を鼓舞する見習いの横に、小さな影が現れた。
「……、水。飲んで」
「ミコちゃぁん……」
 水の入ったグラスを持ったミコが、それをの口元に持っていく。目の前に持ってこられたからか、も傾けられるグラスに手を添えて大人しく水を飲み下した。
 空になった入れ物を見習いに渡すと、ミコはそっと彼女の背を撫で、静かに語りかける。
「……大丈夫。今は、その時じゃないだけ。全部終わったらきっと、あの人もに会いに来るから」
「そ、う、かなぁ……」
 喉を引きつらせしゃくりあげながら、が涙で濡れた瞳をミコに向ける。そんな彼女の目元を指で拭い、ミコは小さく微笑んだ。
「うん。きっと」
「っ、ん……じゃあ、待つ……うー、ミコちゃんすき……」
「……私も」
 ぎゅうと抱きついてくるを抱きしめ返しながら、ぽんぽんと頭を撫でる。そんな二人の様子を、横にいた見習いはぽかんと口を開けながら見届けていた。
「えっ、なに、驚くほど一瞬で綺麗に収束した……自分のあの苦労は一体……まぁそんなことはもうどうでもいい……ありがとうミコ様……」
「お前は何というか状況引っ掻き回しただけだったな」
 何はともあれ助かったとミコのことを拝みだした見習いにそう投げかけてくるマスターを、見習いがじろりと見据える。その目は一番余計なことを言っていたのは誰だと言っているかのようだった。
「言っときますけど半分くらいは変な方向に話題掘り下げたマスターのせいでもありますからね」
「元はと言えばお前とあいつがなんか怪しい感じになってたのが悪い」
「だから言い方!!」
 意図的にそういう言い回しを選んでいるとしか思えないと見習いは眉を寄せて大げさに溜め息をつく。自分に対して言ってくるくらいならばまだいい。いや、よくはないが。もしもこのノリで他の連中、例えばあの色ボケ三人衆――一度そう呼称した際は全員が捲し立てるように反論してきたが見習いの中ではこう呼んでいる――に話されでもしたらと思うと、想像だけでもあまりの面倒臭さに胃が悲鳴をあげそうだ。
 にやにやとした笑みを浮かべるマスターに、今度そういう言い方をしたら寿司を全部掠め取ってやると彼は心に決めた。
「……今日はチキンとケーキが食べたい」
 密かな決意を燃やす見習いの横で、ミコがそう言葉を発する。今日に限ったことではないがまた突然だなと見習いは思わず苦笑した。
「クリスマスはもうちょい先――って、さん寝てる?」
「静かに」
「はい」
 やけに静かだと思ったらいつの間に、と驚きの声をあげれば瞬時に声と視線で制され、反射的に敬語になってしまった。
 ミコの肩に頭を乗せたの寝顔は今日見た中で一番穏やかであり、そのことに見習いもどこか安心したような表情を浮かべる。しかし、ミコは立ちっぱなしなうえ人の頭を肩に乗せていて疲れないのだろうか。そう疑問に思い問いかけると、彼女は「平気」と首を横に振った。
「よし、見習い。チキンとケーキ、さくっと調達して来い」
「流れるような使いっ走り……もう慣れたけど……」
 よし行け、と犬に命令するかのように外へと繋がる扉を指で示される。それでもわりとすんなり従う程度にはこの扱いに慣れてしまっているということに若干の悲しさを覚えた。ライブハウスの見習いとは一体、と哲学を始めそうになるが、さっさと行かねばどやされるだろうと防寒具を身に着ける。
「いってらっしゃい」
「すっ転んでケーキ台無しにしないようにな」
「はいはい……」
 自分の身というよりはケーキを案じているような言葉を背に受け、呆れた顔をして外に出る。「さむ、」とマフラーに顔を埋め、どちらを先に買いに行こうかと思案しながらその足を進めた。





Merry Christmas





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