そんなところも好きだけど
淹れたてのコーヒーにモーモーミルクを注ぎ、軽く混ぜ合わせる。そうして柔らかな色合いになった液体をほんの少しスプーンで口に運んで、は頷いた。
――このくらいの温度なら、何も考えずに口をつけても火傷することはないだろう。
これは自身が飲むために用意したものではなく、夕食後に『今日で作業を終えられそうだ』と言いながら机に向かったジニアへの差し入れである。
普段であれば、彼へのコーヒーにミルクは入れない。しかし、現在の彼の状態やら何やらを考えて、そうした方がいいだろうとは判断をしたのだ。
作業に集中しているときのジニアは、その時々にもよるが、少々注意力が散漫になるところがある。普段周囲に向けている意識の大半が対象へと向かってしまう、と言った方が正しいかもしれない。
そんな状態のジニアへ熱い飲み物を渡したらどうなるか。答えは明白である。そのため、適度に温度を下げてやる必要があったというわけだ。
少し冷めるのを待ってから持っていく、という案もの頭にはあったのだが、ふと、『この時間にコーヒーを飲んだら寝ようとしたときに目が冴えてしまわないだろうか』と心配になったのだ。そうして考えた末に思い付いたのがミルクを加えることだったのである。――実際のところ、それにどの程度効果があるのかは分からないし、そもそもコーヒーを常飲しているジニアには不要な心配であるかもしれないが。
マグカップを持ち、作業部屋のドアを軽くノックする。返事はないが、その程度は想定内だ。が静かにドアを開くと、真剣な表情でモニターと向き合っているジニアが目に入った。
「ジニアさん、お疲れ様です」
そう声をかけつつ、彼のデスクに近寄る。
「お疲れ様ですー……」
画面に向けた顔はそのままに、ほぼ反射でこぼれ落ちたような声が返ってきた。これはもしかしたら自分のことを同僚か誰かだと認識しているかもしれないな、と思いながら、彼女はデスクに目を向ける。
本やら紙やらでごちゃごちゃとしている中に空のマグカップを見つけ、それを持ってきたものと交換する。
「飲み物持ってきたので、よかったらどうぞ」
「ああ……ありがとうございます」
そう口にしてはいるものの、依然として顔も視線も固定されている。見る者が見れば『失礼ではないか』と怒りそうなものだが、は初めて見る彼の様子に『新鮮だなあ』と思う程度だった。
これまで何度か似たような状況はあったが、その時は声をかけた時点でいつものふにゃりとした笑顔と声で「さん」と名前を呼んでくれていた。それが今はおそらくのことを認識してすらいない。
もしかして、と、彼女の頭にひとつの考えが浮かんだ。
ここ数日、ジニアはアカデミーに泊まり込みで作業をしていて家には帰ってきていなかった。今のこの様子から考えるに、アカデミーにいる間はろくに睡眠をとっていなかったのではないだろうか。
彼は以前に「熱中してたらいつの間にか朝だった、なんてことは結構ありますねえ」などと話していたことがある。の頭の中ではほぼ確定だった。
そうだとするならこの状態も頷ける。数日間ほぼ寝ずに過ごしていたのであれば、会話が噛み合うだけでも良い方だろう。それに、少なくともこうして部屋にこもる前までは普段と然程変わらない様子であった。
それがいいのか悪いのかは置いておくとして、自分には到底無理だ、とは何とも言えない目でジニアを見つめる。
とりあえず彼の邪魔にならないように退室するかと足を引きかけて、その前に、と彼に声をかける。
「ジニアさん、」
「――すみません」
彼女の言葉を遮るかのようにジニアが声を発した。は少し驚いて目を瞬かせる。
「その話、今じゃないと駄目ですか?」
心なしか普段より低い声でそう問われ、は「えっ」と声をこぼした。別に強く責められているわけでもないのに、叱られたり怒鳴られたりしたときのように胃がきゅうと縮み上がる感覚を覚える。
が言葉を探している間、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。止まらないその音に返事を催促されているような気持ちになって、彼女はどうにか口を開く。
「っあ、えっと、……いえ、そんなに大したことではないので……」
「それなら後でも構いませんか」
「はい、大丈夫です……すみません……」
思わず謝罪を口にしたは「それじゃあ、失礼します……」と半ば逃げ出すように部屋を後にした。
結局、最後までジニアはに顔を向けなかった。
回収してきたマグカップを洗いながら、ようやく落ち着いた、というように深く息を吐く。
が彼に言いかけたのは『あまり無理しないでくださいね』という言葉だった。ただそれだけなのだから言ってしまえばよかったのだが、頭が真っ白になってしまったのだ。
「別に後から言うことではないなあ……」
先程のやりとりを思い返したはそう呟いて苦笑する。まああの感じでは彼も覚えてないかもしれないし、とひとり頷き、濡れた手を拭いて寝室へと足を向ける。
寝室のドアを開けると、ベッドの上でまどろんでいた相棒のバウッツェルがぱっと顔を上げた。その様子に頬をゆるめながらベッドに腰掛ける。
「ふふ、あっためてくれてたの?」
軽く頭を撫でながらそう問えば、バウッツェルは『そうだ』と答えるようにわふんと鼻を鳴らした。
「そっかそっか~、ありがとうねぇ」
かわいらしい相棒にの顔は更にゆるみ、抱きつくように腕を回してその体をわしゃわしゃと撫で回す。最早撫でるというより捏ねるに近い手つきだが、バウッツェルも嬉しそうに尻尾を振っている。
ひとしきりじゃれた後、は体を起こして時計に目をやった。日付こそ変わっていないがそこそこいい時間である。
『そこまで遅くはならないはずだ』とは言っていたし、彼女はジニアの作業が終わるまで起きて待っているつもりだった。しかし先程のこともあり、少しばかり悩んでしまう。
「気まずくなっちゃうかなあ」
もちもちとバウッツェルの手を揉みながら、どうしたものかと考える。
彼は自分とのやり取りを覚えているだろうか。覚えているとしたらどのような反応をするだろうか。覚えている云々の前に、作業が終わった瞬間に気が抜けて寝落ちてしまうかもしれないし、あまり遅いようなら様子を見に行った方がいいだろうか。
そんなことをあれこれ考えているうちに、少しずつの思考がずれていく。
あまり見ることのない、若干目が据わっているようにも見える真剣な横顔。普段の柔らかな喋り方からは想像もつかなかった冷たさすら感じる声音。
(さっきは驚いちゃったけど、思い返したらなんか別の意味でどきどきしてきちゃったな……あれはあれでアリというか……たまにはああいう感じのジニアさんに――)
そこまで考えて、我に返ったが一体自分は何を考えているんだと思い切り頭を振る。そしてそのまま勢いよくベッドに倒れ込んだかと思えば、枕に顔を埋めて呻き声を上げながら脚をばたつかせた。
唐突な相棒の奇行にバウッツェルが不思議そうな顔をしてその鼻での頭をつつく。ぴたりと動きと声を止めた彼女が顔だけを横に向け、恥ずかしそうに笑った。
「ご、ごめん……何でもないから大丈夫――ジニアさん?」
部屋の外からジニアの声が聞こえた気がして、は頭を持ち上げる。その瞬間、何かを叩きつけたかのような大きな音が聞こえて彼女は思わずバウッツェルに抱きついた。
一体何の音なのかと考える間にどたどたと足音が寝室の前まで移動してきて、勢いよくドアが開いた。
ああさっきの音もこれか、とが理解するのと同時に、「さん!」と焦ったようなジニアの声が部屋に響き渡る。
は、近隣住民からの苦情を覚悟した。
時は少し遡る。
が部屋を去った数分後、ジニアは解放感に満ちていた。半月以上もの間彼を拘束していたあれやこれやがようやく全て片付いたのである。
面倒なものや苦手なものは先に終わらせていたし、残りは半ば趣味のような内容であったため、作業自体は特に苦痛ではなかった。ここ数日睡眠時間がほぼ無かったのも、早く終わらせたくて無理をしていたというわけではない。ただ単に『忘れていた』だけである。
とはいえ、ポケモンたちやに割くための時間が減ってしまうことが心苦しかったのも事実である。
今度の休みは全員念入りに手入れをして、と部屋でゆっくり過ごして――と、頭の中で色々と考えながら肩を回したり伸びをしたりして凝り固まった体を軽くほぐす。自分の体のメンテナンスもしてやるべきかと思案しつつ、マグカップを手に取って口をつけた。
「……?」
そこで初めて、ジニアはマグカップの中身が普段自分が飲んでいるものと違うことに気が付いた。作業中にも口にしていたはずだが、その時はまるで気にしていなかったのだ。
まだ冷めきってはいないそれはきっとが持ってきてくれたのだろう。後でお礼を言わなくては、と考えながら、空になったマグカップを机に置く。
そういえば、と、ジニアはあることを思い出した。――作業中、誰かと会話をした気がする。
状況的にその『誰か』は以外にありえない。思い返せば、このマグカップを渡されたのもそのときである。だがジニアには『と会話をした』という認識がまるでなかった。
それもそのはずで、その時のジニアは作業を終わらせることに集中するあまり、それ以外にはほとんど思考を割いていなかったのである。そうならないように一応気を付けてはいたつもりだったのだが、と、彼は深くため息をついた。
一体何を話したのだったか。顔を覗かせる嫌な予感を抑え込みつつ、休息状態に入りかけていた脳を叩き起こして会話の内容を掘り起こす。
(確か……飲み物を持ってきたと言われて……その後……)
こめかみ辺りを指の先で軽く叩きながら、微かな記憶を辿っていく。しばらくの後、ふと、その指が動きを止めた。
「ああーっ!!」
がたん。
勢いよく立ち上がった弾みで椅子が倒れる。それに目もくれず、ジニアは急いで部屋を出て寝室へ向かう。慌てすぎて足がもつれかけるも、寝室のドアが目前であったため転びはしなかった。その代わりに、ほぼ突き破るような勢いでドアを開けることにはなったが。
「さん!」
寝室に足を踏み入れた彼の目に入ったのは、バウッツェルを抱きしめているだった。その光景は彼女が相棒に泣きついているようにも見えて、ジニアは全身から血の気が引いていくような心地がした。
滑り込むようにベッド横へ正座し、彼女を見上げる。
「あっ、あの、さん、すみません、さっきのは、その、ええと……」
何を言っても言い訳になってしまいそうで、言葉に詰まってしまう。普段であればもう少しうまく謝ることもできたのだろうが、ここしばらくの激務――なおほとんど彼の自業自得である――によって既にジニアの脳は限界寸前だったのである。
そして、疲弊しきった彼の脳から今とるべき最善の行動が導き出された。
「ごめんなさあい!!!」
大きく息を吸ったかと思えば、思い切り床に頭を打ちつけながらそう叫ぶ。ドドゲザン顔負けの鮮やかな土下座である。彼も頭を打ちつけるまでするつもりはなかったのだが、勢いを殺しきることができなかったらしい。
目の奥で軽く火花が散ったし若干頭もぐらぐらしている。しかしここですぐ頭を上げるわけにも、と考えるジニアの頭上から、慌てたような声が降ってきた。
「ちょ、ちょっとジニアさん!? 今だいぶすごい音しましたけど大丈夫ですか!?」
の手がジニアの頬に触れる。「ほら、顔上げてください」という声に言われるまま顔を上に向けるが、どうしても彼女の顔を見られずにぎゅうと目を閉じる。
「うーん、ちょっと腫れてるかも……冷やした方がいいかな……」
彼女が触れるか触れないかくらいの力でジニアの額をなぞり、心配そうな声でそう呟く。おそるおそる彼が目を開くと、その目に映ったのは泣き顔でも怒り顔でもなく、心底彼を案じている様子のだった。
「……お、怒って、ないんですか……?」
「怒る?」
きょとんとした顔で「私が?」と首を傾げるに、こくりとジニアが頷く。そのジニアの顔が、どうにも相棒の『悪いことをしてしまった』というときの様子と被って見えて、はくすりと笑ってしまった。
それは自分の台詞だったはずなのになあ、と小さく息を吐きながら、彼女はジニアの髪を梳くように撫でる。
「怒ってなんていませんよ」
ほほ笑みながら発されたの言葉を聞いて、僅かな間を挟み、彼の表情がぱあっと明るくなった。
「よ、よかったあ~~~~!!!」
「きゃっ!?」
弾かれたように身を起こしたジニアがの腹に抱きつき、その勢いのままベッドに倒れ込む。「や、あの、ちょっと」という彼女の声が聞こえているのかいないのか、ジニアはすりすりと彼女の胸と腹の間辺りに自身の頬をすり寄せている。
彼が頬を寄せている場所が場所なだけにも最初は焦っていたが、彼に一切下心がなさそうだと判断し、ポケモンにじゃれつかれているようなものだと思うことにした。
「――で、――だと思ってなくて――もう心臓が止まるかと――」
頬擦りをやめたかと思うと、顔をの体に埋めたままぼそぼそとジニアが何事かを呟き始めた。
一応に話しかけているのだろうが、やたら早口で声量もあまり大きくなく、くぐもっているためかなり聞き取りにくい。断片的に聞こえる言葉から何を言いたいのか大体察したは、うんうんと相槌を打ちながら彼の頭をゆっくりと撫でる。反対側の手の下にバウッツェルが頭をもぐりこませてきたため、思わず笑い声がこぼれそうになった。
彼が後から謝ってくることを予想していなかったわけではない。しかし、どうやらジニアは彼女が想像していたよりも深く反省しているらしい。『あれはあれで結構好きですよ』なんて言ったらどうなるのだろうか、とぼんやり考える。
(引かれるか……さすがに……)
やめとこ、とひとり頷く。そうしているうちに、気付けばジニアの懺悔は終わっていた。
深夜の騒音についての苦言を呈したい気持ちもあったが、今の彼に追い打ちをかけることもないだろう。そう思いながら、とりあえず退いてもらおうと彼の肩を軽く叩く。寝るのならば着替えた方がいいだろうし、できればシャワーも浴びた方がいい。
「ジニアさん」
応答がない。
名前を呼びながら先程よりも強めに体を揺すってみるも、体を起こすどころか身じろぎひとつしない。ついでにもう片方の手で撫でていたバウッツェルもすやすやと気持ちよさそうな顔で眠っている。
「…………どうしよう、これ」
自分はまだいい。だがジニアの体の半分以上はベッドからはみ出しており、膝がつくかつかないかくらいの体勢である。寝不足だったとはいえ、むしろよくこの状態でここまで熟睡できるものだとはいっそ感心すら覚えた。
それはそうと、この状態では疲れが取れないどころか下手をすれば体を痛めてしまうかもしれない。一度眠ったのを起こすのも忍びないとは思いつつ、彼女は目を覚ましてくれることを祈ってジニアの体を揺すり続けるのだった。
2024.12.03
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