やさしいひと



 彼と最後に話をしたのはどのくらい前になるだろうか。
 今は使われていないその部屋で古いアルバムを広げ、は小さく息を吐いた。腕の中のデンヂムシが不思議そうにの顔を見上げたが、彼女は薄く笑ってその頭を撫でるだけだった。
ちゃん。ちょっと買い物に行って来るわね。悪いのだけど、お留守番を頼んでもいいかしら?」
 不意に扉が開き、彼女に声がかけられた。視線をデンヂムシから声の主――「彼」の母親である女性に移し、は頷く。
「はい、大丈夫です。……その、いつもすみません……何もしないでこうしてるばかりで……」
「気にしないでちょうだい。いつも遅くまで引き止めてるのは私だし、それにちゃんは来る度にお手伝いだとかこの部屋のお掃除だとか、色々してくれてるじゃない」
 申し訳なさそうに眉を下げるに、女性は柔らかく微笑む。申し訳ないやらありがたいやらで、「ありがとうございます」と言いながらも思わず目を逸らしてしまう。そんなをにこやかに見つめ、今日もご飯を食べていってくれると嬉しいわ、と告げると、女性は部屋を出ていった。
「……なんか、おばさんやけに機嫌が良いというか……嬉しそうだったね。何かいいことでもあったのかな?」
 彼女はデンヂムシの頭を撫でながら呟く。彼にもよく分からなかったのか、ぷあ、と同調するような声が返ってきて、特に何も思い浮かばないまま暫くそうしているだけの時間が過ぎた。
 ふと、開かれたままだったアルバムが目に入る。幼い頃の「彼」はそれは楽しそうに笑みを浮かべており、も自然と頬がゆるむ。腕の中から机の上に移動してきたデンヂムシも、心なしか嬉しそうだ。そっと写真の中の「彼」の笑顔に指を滑らせ、彼女はまたひとつ息を吐いた。
「いつの間にこんなに遠くなっちゃったのかなあ」
 彼女と「彼」は、昔は家がそこそこ近かったというのもあってか一緒にいることが多かった。現在彼女が連れているデンヂムシも、「彼」に手伝ってもらってゲットしたポケモンである。彼女の中で「彼」は頼れる兄のような存在であり、また、「彼」にとっても彼女は大切な妹のような存在であった。
 「彼」が島めぐりに挑戦する頃には、彼女の中には既に淡い恋心が生まれていたし、彼女もそれを自覚していた。この地を離れると聞いた時には、分かっていたことだとはいえ、その寂しさから泣いてしまったりもした。(どうして一緒に行っちゃいけないの、なんて言って周囲を困らせたことは彼女の中ではいい思い出であり、仕舞っておきたい思い出でもある。)
 しかし、その後は連絡を取る頻度が週に一度から月に一度、とどんどん減っていき、現在では半年に一度メールでやり取りが出来れば多い方という程度には疎遠になってしまった。彼女も島めぐりに挑む歳になったというのもあるが、一番の原因はきっと「彼」がとある集団に所属したことがきっかけだと、少なくとも彼女はそう考えている。「彼」がよくないことを、それも率先して行っているなんて信じられなかったし信じたくはなかったが、街を歩いているだけで耳に入ってくる噂や、実際にその集団の一員だと思われるトレーナーの言動を見ているうちに、本当のことなのだと理解せざるを得なかった。
 それでも完全に連絡を取ることを拒まれているのではないという事実は彼女にとっては嬉しいものであり、最後の希望のようなものであった。こうして「彼」の家に定期的に来るのも、出ていった当時のままである部屋を綺麗にしておくのも、いつか帰ってきて昔のように過ごしたいという願いからの行動なのである。
 そういえば、例の集団は解散したとかいう噂を聞いたのだが、本当なのだろうかとページを捲る手を止めて考える。それならば、「彼」はどうするのだろう。ここに帰ってくるのだろうか。
 そうだったら嬉しいなあとデンヂムシの額をつつくだったが、とあることを思い出してその動きを止めた。
「……そういえば、好きな人、いるんだっけ……」
 上機嫌で額をつつき始めたと思ったら突然指を食い込ませたまま深く溜め息をつく彼女に、デンヂムシがなんだなんだと言うようにぷあんと鳴く。あっごめん、と慌てて指を離しただったが、依然その表情は暗い。
 いつだったかに聞いた「彼」の好きな人。その人のことは彼女も知っていた。知っているからこそ、とてつもない衝撃を受けた記憶があった。それを知った時は正直自分でも引くほど泣いたし、現在は結婚している某博士達にひたすら話を聞いてもらうという今思い出しても申し訳ない気持ちでいっぱいになるようなこともした。そういえばそれとは別に最近別の女の子とどうのこうのみたいなことをククイ博士が言っていた気がするけどなんだっけ。
 色々なことをあれもこれもと思い出し頭を抱えていくを心配するようにデンヂムシがその体を彼女の腕に押し付ける。
「ありがとうデンヂムシ……色々思い出して悲しくなってきたからちょっとおばさん帰ってくるまで寝よう……気持ちをリセットしよう……」
 柔らかなデンヂムシの体を抱え上げ、使用感のないベッドに倒れ込む。眠りに落ちる直前、は「彼」が昔泣きじゃくる彼女に言った言葉を思い出した。
『このオレさまがアローラで一番強くなって戻ってきてやるからよお! それまで泣かずに待ってろ! いいな!』
 髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど力強く撫でてくる手と、負けないくらい力強い声。その後に見せた得意げな笑みに、は思わず泣くことも忘れて頷いたのだ。
「……ずっと、待ってるのに……グズマくんの、ばか……」
 呟き、意識を手放したの頬を、一筋の涙が伝った。

***


 日が傾いて来た頃、彼は自分の家へ帰ってきた。例の一件があってからというもの、気まぐれに、不定期に家に帰ることはあったが、今日は違った。彼の母親から今日は帰って来ないのかと連絡があったのだ。
 別にそんなことは気にせずに修行のため泊まり込んでいるハラの家に戻っても良かったのだが、これまでにそんな連絡を受けることはなかったので、その珍しさから面倒だが行ってやろうという気になったのである。
 普段は掛かっていないはずの玄関の鍵がかかっていることに小さな疑問を覚えたが、特に深く考えず買い物にでも行っているのだろうと結論付けた。とりあえず自分の部屋で適当に時間でも潰すかとドアノブに手をかけ――
「…………」
 ――何事もなかったかのようにそのまま閉めた。そのまま無言で首をひねり、天井を仰ぎ、額に手を当て、「いや、意味が分からねえ」と呟いた。
 ここは自分の家で今ドアを開けたのは自分の部屋であるはずなのだが、ベッドに見知らぬ人間、しかも女性が横たわっていたのだ。彼には現在の状況が全く飲み込めていなかった。
 ドッキリか何かかと疑いながらもう一度恐る恐るドアを開ける。すると、足元からぷああという鳴き声が聞こえてきて彼は「この鳴き声は」と反射的にそちらを見た。
「やっぱりデンヂムシか………………お前、まさか」
 の、と呟いたところでデンヂムシが一際大きく鳴いたものだから、彼は抱き上げたデンヂムシを危うく床に落としてしまうところだった。落としかけた彼を抱え直し、腕の中の体をむにむにといじり「元気そうだな」「つーか進化してねえのか」などと話しかけながらベッドに近付く。そこに横たわっていたのは彼が予想した通りの人物で、彼は呆れとも何ともつかないような表情でデンヂムシとを交互に見やりながら「何してんだお前ら」とこぼした。
 熟睡しているのか全く目を覚ます気配のないをみて溜め息を吐き、ベッドの端に座る。振動が伝わったのか彼女が小さく身動ぎをしたが、起きることはなかった。暫くの間彼はデンヂムシを撫でたり揉んだりポケマメをやったりしていたのだが、横でデンヂムシが鳴こうが彼が喋ろうが一向に目覚めない彼女にさすがの彼もどうなんだと思い始め、寝息を立てるの肩を揺さぶった。
「おいコラ起きやがれ。一応男の部屋だぞお前の頭はどうなってんだ」
「んん、……い、痛……どうしたのデン……ヂ……ムシ…………、ぇ」
「誰がデンヂムシだって? ああ?」
 毎朝そうしているようにデンヂムシが起こしてきたものだと勘違いした彼女が目を覚ます。ぼんやりしながら顔を上げたはいいが、眠る前に散々考えていた相手が目の前におり、あまりの驚きで寝起きの悪い彼女の頭も一瞬で覚醒した。
「えっ、……グズマ、くん……!? ああああのちょっとち、近、近すぎ、るので、ちょっと、離れ、」
「はあ!? おっまえ、男のベッドで勝手に寝といてその反応はねえだろ!! っつーか寝んな!! ブッ壊されてもしんねえぞ!!」
 突然何年も会っていなかった想い人が目の前数センチにいることにも起き抜けに突然捲し立てられていることにも全く頭がついていかなかったが、言葉こそ乱暴であれ一応彼女の身を案じてくれているようなことを言っていることに気が付き、は勢いのままに彼の体に抱きついた。
「っ……グズマくん……!」
 一方のグズマは離れようとしたところを突然抱き締められ、今自分で離れろって言わなかったかと言葉を発しようとしたが、の肩が小さく震えていることに気が付き、口を閉じて彼女の頭に手を置いた。
「……グズマくんのばか、ばかっ……わたし、待ってたのに……心配……してた、のにっ……!」
 しゃくりあげながら発される言葉を、グズマは居心地の悪そうな表情をしながらも黙って受け止める。彼女の言葉に賛同するかのようにデンヂムシがグズマの脚辺りにたいあたりのような何かをしている。お前さっきまでおとなしかっただろだとか地味に痛ぇからやめろだとか言おうかと思ったが、諦めて彼女の言葉を聞くことだけに意識を向けた。
「ぅ、……わた、わたしは、ずっとさびしかった、のに……じぶんは、すきなひとのちかくに、いてっ……そんな、の……ずるい、よぉ……」
 自分勝手なことを言っているという自覚はあったが、何年も言いたいことを言えずに溜め込んでしまっていたは零れ落ちる言葉を止めることができなかった。こんなことを言ったら嫌われてしまう、と、彼女の中の冷静な部分が訴えかけていたが、頭を撫でるグズマの手つきが優しすぎて、思考も何もかもどろどろに溶けていってしまうようだった。
「まってろ、って、……いう、から、……わたし、ずっと、……ずっと……うぅぅ……」
「…………
「なんでっ、……そんなに、やさしくするの……っ! ほかの、ひとたちにっ、して、た、みたいに、っ……ひどくして、くれれば……よかったのに、」
 の言葉に、一瞬、グズマの手が止まる。知られていないとは思っていなかったが、数少ないやり取りの中でも直接彼女の口からそういった話題を聞いたことがなかったため、少なからず動揺してしまった。そんなグズマの動揺を感じ取ったのか、彼女は「でも、」と顔を上げる。
「それでも、……きらいになんて、なれる、わけない……よぉ……ばか…………」
、」
 グズマがぼろぼろと溢れる涙を拭おうとした瞬間、はそっと回していた腕を放し、ベッドから降りる。その動きはあまりにも素早く、つい先程まで抱き締められ頭を押し付けられていたグズマは呆気にとられてしまった。
「グズマくんに、好きな人がいても、っ……違う女の子と色々、あっても、」
「……あ? おい待て何のこ――」
「ずっとずっと前から、っ、本気で、好きなんだから――!!」
 それだけ絞り出すようにして告げると、はくるりと後ろを向いて走り去っていった。いつの間にか彼女のデンヂムシも肩に乗っており、部屋にはただぽかんとするグズマだけが残された。暫く彼女が残していった言葉の意味や「違う女の子」が何なのかについて思考を巡らせていたが、「何やってんだグズマ」と自分を叱責し、鍵を掛けることも忘れ彼女の後を追いかける。
 途中出会った少女――この少女こそ件の「女の子」なのであるが――に「こんなヤツが通らなかったか」と聞くと、「方向的に浜辺……あ、もしかしたら博士のところかもですね!」なんて答えが返ってきたものだから更に焦って走り出す。その際に後ろから「頑張ってくださ~い!」などという声が聞こえ思わず振り向き「うるっせえ次会ったらブッ壊す覚えとけ!!」と返してしまった。
 そんなことをしている場合じゃないと前を向くグズマの表情は怒りやら焦りやら困惑やらでこれ以上ないほど複雑なものになっていたが、気分は不思議といつもより晴れやかだった。





2016.11.30
修正 2017.01.23



BACK