触れた温度



 画面を流れていく文字を眺めながら、ひとつポロックをつまむ。苦手な味だった、と僅かに顔をしかめたデオキシスの横では、が涙をぼろぼろと零しながら満足げな表情を浮かべている。その様子を見て、彼は小さく首を傾げた。
 デオキシスが認識している人間が涙を流すときの感情は『悲しい』と『嬉しい』である。――なお、後者に関しては以前「嬉しい時にも涙は出るんだよ」とに言われたためそういうものなのかと記憶したものの、未だあまり理解はできていない――
 だが、今のの表情は彼の認識しているどちらとも違うように見える。では一体どういった感情なのか、と考えてみても、デオキシスにはいまいちぴんとこなかった。彼は『相変わらず人間の考えていることはよく分からないな』と思いながらまたポロックに触手を伸ばす。
 ふたりが観ていたのはとある恋愛映画だった。彼女と趣味の似た友人が絶賛しているのを聞いて、それじゃあ自分も観てみるかとが借りてきたのだ。「一緒に見てみる?」と聞かれ頷きはしたが、話が中盤に差し掛かる頃には既にデオキシスの興味の大半はテーブルの上の菓子類に移っていた。画面も一応見ていたとはいえ、映画の内容よりも食べたものの味の記憶の方が強いと言っていいだろう。
「はあ……めちゃくちゃ良かった……」
 未だ映画の余韻に浸っているは、あの場面が、あの台詞が、とうっとりとした表情で語り続けている。正直デオキシスには彼女が言っていることの半分も理解できないが、が楽しそうならばいいかと相槌を打っていた。
 しばらくそうしていたかと思うと、彼女ははっとしたように口をおさえて「ごめんごめん、一人で盛り上がっちゃった」と照れたように笑った。ほんの少しの気まずさを隠すように菓子の乗った皿に伸ばされた手が途中で止まる。
「……だいぶ用意したと思ったんだけど……デオキシス、一人でどれだけ食べたの……?」
 山のように盛られていたポフレやポフィン、ポロックといった菓子類は既に数えるほどしか残っていない。何のことだか、ととぼけるように目を逸らすデオキシスをじとりと見つめたあと、は軽く息を吐いた。
「まあ、恋愛映画と食べ物なら食べ物いくかあ……」
 どこか納得したような表情でポフレを口に運ぶ彼女をじっと見つめる。「恋愛とかはデオキシスにはまだ早かったね」と笑うに、デオキシスはむむ、と眉間にしわを寄せた。実際、彼は人間の感情というものに疎いのは自覚しているが、そう真正面から言われると面白くない。
 以前であればここで『面白くない』という感情を抱くこともなかったはず、ということを考えると、彼女の台詞は事実その通りなのだろう。今はまだ学習途中だというだけで、きっと自分にもこの映画の内容を理解することができる日はくるはずなのだ。
 ――しかし、現在のデオキシスも、恋愛というものがまるで理解できていないわけではない。そうであると断言こそできないが、に抱いている情はおそらくそれに近い何かである、と彼は認識している。
 そして、それを相手に伝える方法もデオキシスは『知っている』。
「……?」
 じ、と真っ直ぐにを見るデオキシスに、彼女は怪訝な表情を浮かべる。触手の先を人間の手のような形に変化させて、そうっと彼女の頬に触れれば、肩が小さく跳ねた。
「な、なに、どうしたの……?」
 困惑したように自分を見上げる彼女の顔に、すいと自身のそれを近付ける。突然縮まった距離にが思わずぎゅっと目を瞑る。それが彼への『合図』になっているとも知らずに。
 の目が閉じられたことを確認したデオキシスは、その顎をほんの少し持ち上げて、彼女の唇と自分の口にあたる部分を静かに触れさせた。その瞬間、は閉じていた目を見開き、思わず後ろに飛び退こうとしてソファの背もたれに背中をぶつけた。
「っ!? な、ななな、なんっ……なに!? は、いや、えっ!?」
 顔を真っ赤にして言葉にならない声を上げるを見て、デオキシスは何か自分は間違ったことをしたかと首を傾げた。
「ど、どこでそんなこと覚えてきたの……!」
 そう問いかける彼女に、デオキシスはメニュー画面が開かれたままのテレビを指し示す。内容や感情を完全に理解してはいないが、先程の映画や時折彼女が見ているテレビ番組などでそれが相手への愛情を示す行為であるということを彼は学習していた。
 最初に見つめ合って、どちらかが瞳を閉じたら互いの口と口を触れ合わせる。イレギュラーなパターンもあるが、基本的にはこの流れで行うのが正しいのだと、その認識に則って行動した結果が先程の彼である。
 どうだ、と言うように胸を張ってみせるデオキシスに、は何か言いたげに口をもごもごとさせ、結局大きな息だけを吐き出した。
「……はああ……いや、うん……さっきのは撤回する……」
 脱力した彼女がデオキシスにもたれかかり、その肩にぐりぐりと額を押し付けている。なんだなんだと思いつつもされるがままになっていた彼だが、彼女から視線が向けられていることに気が付いて顔をそちらに向けた。
「デオキシスがその辺も分かってきてるっていうのは理解した、けど……」
 けど? と彼は続きを促すように彼女を見つめる。は気恥ずかしそうに一瞬彼から視線を外して「その」と口にしたあと、もう一度デオキシスの方に目を向ける。
「心臓に悪いから、突然するのはやめてね……」
 『心臓に悪い』の意味はよく分からないが、がそう言うなら、とデオキシスは素直に頷いた。





2022.08.09
サイト掲載 2024.02.18



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