荘園内の温度管理機能に異常が生じ、復旧までに数日かかるとの通達があったのは朝方のことだった。
 現在は夏ではあるが、極端に気温が上がることはそうない。通達を受けた各人は、その事実を鑑みて、然程問題ではないだろうと結論付けた。
 しかし悪いことは重なるとはよく言ったもので、珍しく雲ひとつない空からは太陽が容赦なく光を降らせ、昼過ぎには多数の者が様々な場所でぐったりとしている様子が見られた。の目の前でソファに身を横たえるルキノもまたその一人である。
「ルキノさん、大丈夫ですか?」
 絞った布をルキノの額に乗せるに、彼は目を伏せて「ああ」と頷いた。
「……すみません。キミにこんな真似をさせるつもりはなかったのだが……」
「いえいえ、元々お部屋でゆっくりするって予定でしたし。こんなに暑いんですから、仕方ないですよ」
 そう言って微笑みながら、は大振りな扇子を持つ手を動かす。わざわざ美智子から借りてきたのだというそれでルキノに風を送り続ける彼女の額や首筋に汗が滲んでいるのをみとめて、彼は申し訳なさそうに謝罪の言葉を重ねた。
 ルキノは『魔トカゲ』になってからというもの、極度な寒さや暑さが昔よりも得意ではなくなっていた。とはいえ、この程度の気温ならばまだ活動できなくなるほどではない。――本来であれば。
 現在の彼は、人間であった頃と比べると食事の頻度や量が少なくとも充分に生活ができるようになっている。しかしここ数日の彼は最低限の食事しか口にしておらず、睡眠も仮眠程度で済ませていた。知識欲を刺激されたときに見られる彼の悪癖である。
 ルキノ自身もそれは自覚しているし、少なくとも倒れたりするようなことはないようにと気を付けてはいた。実際、普段であれば慣れていることもありそのような状態でも問題なく――とても健康的であるとは言えないが――過ごせていただろう。
 こうして歩くこともままならずに横たわっているしかできないのは、全ての悪条件が重なった結果なのだ。
 それでも、彼女にこんな姿を晒し、挙げ句の果てに自分の世話をさせるなど。あまりの情けなさに、ルキノは本日何度目かの溜め息をついた。次からはこういったアクシデントも想定しなければと考える彼の頬に、不意に冷たいものが押し当てられた。
 目を丸くしてに視線を向ければ、彼女は「びっくりしました?」と悪戯っぽく笑ってみせた。その手はルキノの頬を包んでいる。伝わってくる温度からして、氷水の入った桶にしばらく浸していたのだろう。
「本当に気にしなくていいのに、ルキノさんたらずっと難しい顔してるんですもん」
「……」
 くすくすと笑う彼女に返す言葉を探すが、まるで頭が回らない。冷たさを求めてか気まずさを紛らわすためか、ルキノは無意識に彼女の手に頬をすりつけた。そんな何もかもが珍しい彼の行動を見たが、「あのね」と口を開く。
「その、ルキノさんが辛い思いしてるからあんまりこういうこと言うのもどうかとは思ってるんですけど……私、今ちょっと嬉しいんです」
「嬉しい……?」
「あっ、その、ごめんなさい、本当にあの、よくないとは思うんですけど、えっと、」
 首を僅かに傾げたルキノにはっとして慌てたように首を振る彼女は、彼から目を逸らしてぽそりと呟いた。
「ルキノさん、あんまり弱ってるところ人に見せないから……こうしてお世話をさせてくれるのも嬉しいし、それに……」
 そこで言葉を切ったはもごもごと口の中で声を転がす。しばらくそうしていたのだが、先を促すようなルキノの視線に耐えられなくなったのか先程よりも小さな声で続きを口にした。
「今のルキノさん……か、かわいいなって……」
 予想外の言葉に、彼は思わずぽかんとした表情で彼女を見つめてしまった。数秒の間にその意味を噛み砕き、思わず手で目元を覆う。普段ならそんなことを言われようものなら間髪入れずに『君の方が余程可愛らしいですよ』くらいは返すのだが、自分の状況が状況である。情けなさやら羞恥やら、滅多に抱かない感情の渦に溺れてしまいそうだった。
 といえば、黙ってしまったルキノが気を悪くしたのだと考えたのか「ごめんなさい」「ルキノさんの新しい一面が見られたと思って」「嫌わないで」と焦ったように謝罪を繰り返している。だが現在のルキノでは今にも泣き出してしまいそうな彼女をスマートに宥めることもかなわない。
「怒っているわけじゃありませんから、大丈夫ですよ」
 未だ内心の穏やかさを取り戻せていない彼には、そう言って優しく彼女の頭を撫でることが精一杯だった。





2021.07.26
サイト掲載 2021.07.31



BACK