ベンチで微睡んでいたは、視界の端を横切っていった生き物に閉じかけていた目蓋を持ち上げた。早足で、しかし逃げられてしまわないよう極力静かに、ちょろちょろと地面を這うそれを追いかける。
 花壇の手前で動きを止めたそれ――小さなトカゲを驚かせないようにしゃがみ込み、彼女は小さく笑みを浮かべた。
「かわいい……」
 この時点で逃げないということはそれなりに人に慣れているのかもしれないが、さすがに触ろうとしたら逃げてしまうだろうか、と観察を続けていると、中庭の扉が開く音がの耳に入った。
「……何をしているのかね?」
「! ルキノさん!」
 低く落ち着いた声に勢いよく振り向きそうになったのをぐっと堪え、は声をひそめながらルキノの方を向いて手招きをする。
 怪訝な表情をしながらも足音を抑えて近寄ってくるルキノに、彼女はゆるみそうになる頬を引き締めた。ゆっくりと動くためにバランスを取っているのか、大きな尻尾が静かに揺れている。
「あァ、成る程」
 の横に並んだ彼が、納得したように頷く。
「触らせてもらえないかな~って見てたんです」
 隣にいるというのに内緒話をするようにひそひそと言葉を紡ぐに目を細めたルキノが、その頭にそっと手を乗せる。柔らかく髪の毛をかき混ぜられ、は笑みに恥じらいを滲ませた。
「では、聞いてみましょうか」
 そんな言葉と共に、ルキノが目の前のトカゲに手を伸ばす。が「あっ」と声を零したが、トカゲは逃げることもなく、彼の指へ足を乗せた。
 そのままトカゲの乗った手を持ち上げて、ルキノは「やあ、ご機嫌は如何かな?」と語りかける。
「こちらのお嬢さんがキミと仲良くしたいらしくてね。よければ少しの間彼女がキミに触れることを許してほしいのだが――」
 そう言いながら、彼は手をの前に移動させる。「え、あの、」とルキノと彼の手に乗るトカゲとを交互に見遣る彼女に、ルキノは「彼は私の友人でしてね」と口端を持ち上げた。
 それが事実なのか彼の冗談なのかには判断がつかなかったが、事実、手の上のトカゲは大人しく彼女を見つめている。どちらであろうと、触らせてもらえるのなら触りたい。その気持ちが勝って、はゆっくりとトカゲに手を差し出した。
「そ、それじゃあ、失礼します……」
 ルキノがそのトカゲを『友人』と称して語りかけていたのもあってか、も同じように話しかけながら、その体をごく軽い力で撫でる。まるで逃げ出す気配のないトカゲに、彼女はきらきらとした目でルキノを見上げた。
「かわいいですね……!」
「フ……そうですね。とても可愛らしい」
「かわいい……すべすべ……かわいい……」
 小さな前足を撫でていると、不意にトカゲがそれを持ち上げて彼女の指に乗り上げる。重みの増した指先に、は慌ててもう片方の手も添えて足場を安定させようとした。
「わ、わ、……はわ、ぷよぷよだ……かわいい……」
 掌の上のトカゲの脇腹辺りを親指でなぞったが恍惚の声をあげる。その光景に、ルキノは思わず喉を鳴らして笑った。
 暫くの間そうしていた彼女が満足げな表情でルキノを見上げると、彼は頷いてトカゲを受け取る。そしてそのまま手を地面に近付け、「ありがとう」とその身を解放した。
 音もなく去っていくトカゲを見送ったルキノは、何やらの視線が自分の腕に向いていることに気が付いて首を傾げた。
「……サン?」
 ルキノの声にはっとしたが勢いよく顔を上げる。
「な、なんでもないです! ルキノさんも腕の内側とかはぷよぷよなのかななんてそんなことは全然考えて、な――」
「……フム」
「待ってください違うんです今のはあの口が滑ったというか……その……わ、忘れてください……」
 視線をあちこちに飛ばし手をぱたぱたと動かすの頬が熱を持っていく。そろりと目をルキノの方に向ければ真正面から視線がかち合った。
 その瞳があまり見たことのない色を浮かべているような気がして、彼から目が離せなくなってしまう。
「……触ってみるかね?」
「へぁ、」
 の口から、何とも表現し難い声が零れ落ちた。真面目なようにも楽しそうにも聞こえる彼の声と、ほんの少し悪戯っぽさを感じる笑み。目の前に差し出された腕と彼の顔との間で視線を動かしていたは、その言葉の意味を理解した瞬間一気に耳まで紅を広げた。
「ぁ、え、あの、その、」
 もごもごと口の中で言葉を転がしていたかと思うと、彼女は聞こえるか聞こえないかの大きさで声を発した。
「ま、また今度で、お願いします……」
 それだけ言って羞恥が限界に達したのか、は礼と挨拶を口にしたかと思うとゲーム中でもなかなか見られない素早さで中庭を出て行ってしまった。その勢いに呆気に取られていたルキノだったが、少しの間を置いて静かに笑い声をあげた。
「逃げられてしまったな」
 そう呟いたルキノの声は、彼にしては珍しく心底楽しげな声だった。





2021.07.04
サイト掲載 2021.07.07



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