「いらっしゃいませ」
入店の音と共に飛んできた声に、ちらりとそちらへ目を向けた。低めで落ち着いた声の持ち主は、私がこのコンビニに通うようになった原因と言っても過言ではない人物である。
いちいち客の顔など見ていないだろう、と思ったのだけれど、視線がかち合って思わず目を逸らしてしまった。慌てて会釈をして目的の物が陳列されている棚へと向かいながら、今のはあまりにも不審な挙動だったと後悔の溜め息をつく。
……だってまさかこちらを見ているなんて。誰にするでもない言い訳を心中で重ね、心持ち歩幅を広げた。
家からも職場からも絶妙に遠いこのコンビニにわざわざ足を運ぶようになって、もうどれくらい経つだろうか。それまでに一度も立ち寄ったことのないこの場所に偶然訪れ、彼の姿を目にしたその日から、このコンビニに立ち寄ることが習慣化してしまった。彼に会いたい、ただそれだけのために。
言ってしまえば、一目惚れというやつである。
爽やかな色をした制服の袖から伸びるすらりとした腕だとか、器用に動いては作業のサポートをする尻尾だとか、見た目とは裏腹に(と言うと失礼かもしれないが)丁寧な対応といつでも冷静で落ち着いた声だとか。彼の外見や言動ひとつひとつが、ことごとくツボだったのだ。
とは言うけれど、それは特に恋愛感情というわけではなく、どちらかと言えばアイドルや俳優に対するような――所謂『推し』というものに近い。私が彼のおおよそのシフト傾向を把握しているということを知った友人に「何でもいいけど警察のお世話になるようなことだけはするんじゃないよ」などと言われたことはあるが、決してそんな危うい感情ではない。決して。多分。いや、正直だいぶストーカーじみている気がしてどうかと自分でも思っているにはいるけれど。
でも実際に彼とどうこうなるなんてことは一切ありえないのだ。私はこうしてコンビニに通っているだけで特に彼と近付く為の行動を起こすつもりもないし、彼がこの先もずっとここで働いているという保証もない。
私と彼は所詮ただの客と店員で、それ以上でも以下でもない。多少の寂しさはあるけれど、義務的なものとはいえ直接会話を交わすことができる辺り芸能人を推しているよりは余程幸せだと思う。会えるアイドルならぬ会えるコンビニ店員というところだ。いや、会えないコンビニ店員って何なんだ。
そんなことをぐるぐると考えながら、紙パックの飲み物が並ぶ棚の前に立つ。いつも購入しているものがなくて仕方なく別のパックを手に取った。まあこっちも前から気になってはいたし、試してみるのに丁度いい。
あと用があるのはスイーツコーナーだ。最近のコンビニスイーツというものは本当によくできていて、新商品が出るという情報を目にしてはつい買いに来てしまう。今日も新しい商品が幾つか出ていたはずだから、それも買っていこうと考えていた。
――のだけれど。辿り着いた棚には値札はあれど商品はなく、思わず「あー……」なんていう小さな声が出た。まあ確かに、新商品なんてそんなものだ。それに今日は普段より大分来るのが遅くなってしまったし、品物が少ないのも仕方がない。このコンビニは今の時間の少し前くらいにやたらと客数が多くなる傾向にあるから、そのせいもあると思う。彼がレジにいただけでよしとしよう。
他の物を買おうかしばらく迷って、まあ今日はいいか、と特に何も手に取ることなくレジへと足を向ける。
「お願いします」
飲み物をひとつレジの上に置いて、財布を取り出す。値段を告げる彼の声にひっそり胸を高鳴らせながら小銭を取り出そうとしていると、不意に、「申し訳ございません」という声が降ってきてぱっと顔を上げた。しまった、勢いがよすぎた。また不審に思われてしまったかもしれない。
しかし一体何に対して、と思っていると、気まずそうに台の上のパックや私の後ろに視線を飛ばしながら「あァ、いや、」と彼が口を開く。
「……品出しの時間は、まだ先でして。ご不便をおかけします」
「えっ……」
紡がれた言葉に、思わず彼の顔を見つめてしまった。別にそんなの気にしてない――といえば嘘になるけれど、でも彼が謝るようなことでもない。まさか私、そんな言葉をかけたくなるほど残念そうな顔をしていたのだろうか。そうだとしたらすごく恥ずかしい。もうこのコンビニ来れない。いや来るけど。
「あ、いや、全然気にしてないので、その、えっと……だ、大丈夫です! ありがとうございます……!」
噛みそうになりながら何とか返事をすると、彼は再び謝罪を重ねてほんの少し目許をゆるめた、気がした。やだやだやめて死んでしまう。ファンサが過ぎると人は死んでしまうんですよ。
指の震えをどうにか抑えて小銭をトレーの上に置く。お釣りとレシートを受け取ってお礼を言って、そのまま立ち去ろうとすると「お客様」と声が追いかけてきた。なんですかまだ何かあるんですか。
「こちらお忘れですよ」
恥ずかしさで頭を抱えたくなってしまったのは仕方ないと思う。唯一買ったものを忘れるなんて、動揺しすぎだ。
「す、すみません、ありがとうございます……」
彼と言葉を交わせるのは嬉しいけれど、それよりももう恥ずかしすぎて今すぐ立ち去りたい。品物を受け取って窺うように彼を見上げると、その瞳は普段よりも幾分柔らかく細められていて、思わず息を飲んだ。
「いえ。またのご来店をお待ちしております」
それはもう貴方が望むなら何度でも。そんな言葉は飲み込んでこくこくと頷くことしかできず、「ありがとうございました!」と頭を軽く下げて足早にコンビニを後にした。
どうしよう、帰る途中で事故に遭ってしまうかもしれない。そう思ってしまうのも仕方ないくらいにはあまりにも手厚いファンサを受けてしまった。
熱くなった顔に手で風を送り、ひとまず暴れ回っている心臓を落ち着かせようと深く息を吸った。
2021.05.01
サイト掲載 2021.07.07
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