「無咎さん無咎さん!」
「ん? か。どうし――っ、それはやめろといつも言っているだろう」
振り向きざまになかなかの勢いで抱きつかれ、范無咎はを受け止めながら眉根を寄せた。不意打ちとはいえ彼女に飛び付かれた程度では倒れ込むようなこともないが、万が一ということもあるし、声をかけられていなければ咄嗟に手が出てしまうかもしれない。
毎回そう言ってはいるはずなのだが彼女はよくこうして范無咎を見つけてはその背中や腹に飛び込んでくるのだった。仕方のない娘だと溜め息をつきながら、彼はその頭をくしゃりと撫でる。
「えへへ、ごめんなさい。無咎さんを見るとつい体が動いちゃって」
「ほう。この前謝必安にもこうしていたようだが?」
「あっ……れは、その、見たことない服だったけど色的に無咎さんだと思って……それにちゃんと寸前で気付いたから……」
范無咎の言葉に視線を泳がせながら言い訳をするがどうにもおかしく、彼はくつくつと喉を鳴らした。正直なところ、彼は別に彼女が謝必安に抱きついたところで特に何を言うつもりもない。それ以外の男であるなら話は別だが。
「そ、それはおいといて! 今日は無咎さんに聞きたいことがあるんです!」
密着したまま真上に顔を向けて、がそんなことを口にする。「聞きたいこと?」と返す范無咎は己の腹にぺたりとくっついている彼女の首を『疲れないのだろうか』と指でなぞる。
その瞬間「ひゃっ」と高い声を上げてが飛び上がり、范無咎との間に人ひとり分程度の距離が空いた。首をおさえて丸い目で范無咎を見つめる彼女がまるで小動物のようで、彼は思わずふっと息を零した。
肩を震わせて笑う范無咎に、顔を赤くしたは頬を膨らませる。
「も、もう! 何するんですか! びっくりしたじゃないですか!」
「いや、なんだ、首を痛めてしまわないかと思っただけなんだが……まさかそんな反応をされるとは……くく、」
「むぐ……無咎さんのいじわる!」
ますます小動物らしさを増したの様子にこみ上げてくる笑い声を押し殺しつつ、范無咎は彼女を腕の中に閉じ込めた。「すまん」と頭を撫でられたは、ぎゅうと彼の細い腰に抱きついて僅かに不満げな色を乗せた声を発する。
「……質問にちゃんと答えてくれたら許します」
「わかった。お前の期待に沿えるかは分からんが、偽りなく答えよう」
彼女の髪の毛に指を通しながら頷く范無咎をちらりと見上げて、は「あのね」と口を開いた。
「無咎さんが、弱いものって何かなあって」
「……弱いもの?」
「えっと、例えば、『この人には勝てないなあ』とか、『それを条件に出されたら飲むしかないなあ』とか、そんな感じの。人でも物でも――あっ、謝必安さん以外で! ですよ!」
「ふむ……?」
何故そんなことを聞くのか、と首を傾げつつ、范無咎は考える。真っ先に浮かんだのは謝必安なのだが、それ以外だと釘を刺されてしまった。なんと答えたものかと顎を撫でる彼を、はそわそわとしながら見上げている。
ふと、顔を下に向けた范無咎が薄く笑んだ。
「……だな」
「へ?」
「惚れた弱み、と言うだろう。私自身どうにも甘くなってしまう自覚があるし、よく謝必安にも言われるからな。それ以外は特に思いつかん」
いつになく率直な言葉をぶつけられて、の頬が赤みを帯びていく。「そ、そう、なんですか」とだけ呟いて范無咎の腹に顔を埋めてしまった彼女をおかしそうに笑いながら見下ろし、その髪に手を滑らせた。
そろりとが頭を上げたところで、未だ赤く染まったままの両頬を包み込む。
「それで? そんなことを聞いて、ちゃんはどうするつもりだったんだ?」
「っ……そ、それは、そのう、ちょっと聞いてみたかっただけで……」
いたずらっぽく目を覗き込まれ、はあちらこちらへ視線を飛ばして答える。明らかに嘘をついているのにそれを誤魔化そうとしている彼女が可愛らしく、「そうか」と頷いた彼はひょいとその体を抱え上げた。
「え!?」
「言えない、と言うのなら正直に話してくれるまで待つしかあるまい」
そう言いつつ、彼は長い脚を動かして廊下を進んでいく。方向的に彼の部屋がある方へ向かっているのだろうということに気が付き、は「え、あの、無咎さん!?」と范無咎を見上げた。
待つ、と言ってはいるが、それが本当に『待つだけ』でないことはにも容易に想像できた。腕の中の彼女が慌てていることに気付きながらも、范無咎は足を止めない。
彼にしては珍しい言動に目を白黒させて、は『こんなはずではなかったのに』と顔を覆う。彼の部屋まではあと十歩もないくらいだ。
2020.09.26
サイト掲載 2020.09.28
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