一人の男が消えた夜



 ここ数日、身体の疲れを感じることが少なくなっていた。身体能力の向上、及び一部感覚器官の発達。決してあれが齎すものがそれだけだと考えていたわけではなかった。だが、少なからず油断していたのは事実だ。これまでのように痛みや麻痺といった分かりやすい症状がないからと。身体に深刻な害を与えるものではない、そう高を括っていたのだ。
 自分の見通しが甘かった。傷口から剥がれ落ちたモノを見てそう悟る。昼間までは『多少乾燥が激しい』程度だったはずの傷口は、先刻驚くべき早さでその様相を変えた。異変に気が付いた時には既に傷口周辺の皮膚が変質し、瘡蓋とも言い難い何かがそこにあった。その時点で奇妙だとは思っていたが、観察を続けていたところ、それは瞬く間に肥大化し遂には自然に剥がれて床に落ちたのだ。
 その形を見て真っ先に思い浮かんだのは『鱗』。人間には存在しないはずのものである。拾い上げて力を加えてみても一切歪む気配がない。分厚く硬い『何か』は、見れば見るほど鱗に他ならなかった。
 ひとまずメモを取らなければ、と机の上に伸ばした腕に突如として激痛が走り、思わず喉から声が零れ落ちた。痛みを訴えているのは腕だけではない。脚が、背中が、首が、身体中が悲鳴を上げている。骨が軋む音。皮膚が裂ける音。筋肉が千切れる音。意識を飛ばすこともかなわない、圧倒的な痛み。
「ッグ、ゥ……ア……」
 痛みで動けなくなることなど、これまでに何度もあった。それだけではない。全身が麻痺したことも、一日中嘔気が続いたこともある。そんなものは思い出そうとすればキリがない。しかし、現在私の身体を襲っている症状はこれまでに経験したそれらが可愛く思えるほどに苛烈なものだった。四肢を無理矢理引き伸ばされているような感覚は最早拷問だ。立つこともままならず、その場に倒れ込む。
 ――ああ、床が汚れてしまった。この辺りの清掃はどちらの担当だったか。おそらく彼女ではなかったとは思うが。
 そんなどうでもいいことを考えていないと気が狂ってしまいそうで、少しでも気を紛らわせる為に思考を巡らせる。水槽の中の彼らは物音に驚いてはいないだろうか。繊細な個体もいるから、怯えさせてしまったかもしれない。そういえば今日が提出期限のレポートがあった。今回は全員遅れずに提出してくるだろうか。提出物といえば、昨日の君は何やら行き詰った様子を見せていた。もし今日も悩んでいるようであれば話を聞いてやらなければ。君は今何をしているだろうか。さすがに寝ているだろうか。もしかすると、先日貸した本を読んでいたりするかもしれない。もう少しで読み終わるのだと言っていた。彼女とあの本の内容について意見を交わすことを楽しみにしていたのだが、こうなってしまっては難しいだろう。
 何の脈絡もない、思いついたことをただひたすら頭から引き摺り出す。そうしている間も全く痛みは引かず、自分の身体が発する不気味な音だけが頭の中で響いていた。身体は重く、どこも動かすことができない。目に入る腕は筋肉が剥き出しで、そんな次元の話ではないとは思いつつも、雑菌が入り込みそうだな、などと頭の片隅で考えた。血に塗れたそれが何やら痙攣とも違うおかしな動きをしている気がするが、目の錯覚だろうか。痛みのせいで視覚に異常が発生したという可能性もある。
 どれだけ力を込めようと微塵も動く気配のない身体はまるで自分のものでないようだ。いつまでこうしていればいいのか。そもそも私は生きていられるのだろうか。息絶える前に毒液に関する情報を残すことができれば良いのだが。最悪の場合それさえできれば――いや待て、朝やって来た君にこんな状態の私を見せるのは忍びない。人生において、全身の皮膚や筋肉が引き千切れている人間を見ることなどまずないだろう。彼女には色々な経験をさせてやりたいとは思っていたが、このような何の益も齎さない経験をさせたかったのではない。そんなことの為に私は彼女を助手にしたのではないのだ。下手をすれば一生心に傷を残してしまう。それだけは何としても避けたい。……そう思ったところで、動くことのできない自分にはどうしようもないのだが。
 せめて歩行ができるようになってくれれば。そう願うことしかできない自分が酷く情けなかった。

 目を閉じただ呻き声を上げ、どのくらいそうしていただろうか。気付けば痛みは少しずつ治まってきていた。まだ身を起こすことはかなわないが、腕も脚もどうにか動くようになっている。
 時計を確認しようと目を開けると、見慣れないものが眼前にあることに気が付いた。それが何なのかを理解し、思わず息を飲む。先程まで露出していた筋肉が、硬い皮膚で覆われている。皮膚とは言ったがこれはおよそ人間のものとは程遠い。先程傷口から剥がれ落ちたモノが――鱗が、腕を覆い尽くしていた。
「……なん、だ、……これは……」
 一体これはどういうことだ。私は夢でも見ているのか? こんなことは、科学的に、現実的に考えてありえない。……ありえない、はずなのだ。
 やたらと長い腕の先には鋭い爪を生やした細長い指がある。脚に視線を落とせば、これもまた元より長く他の部位と比べてやけに筋肉の発達した太腿が目に入った。自分の身体に何が起こっているのかが全く理解できない。思考は纏まらず、様々な仮説が脳内を飛び交う。一つだけ確かなのは、原因があの毒液であるということだけだ。
 皮膚及び骨格の変質。種属の変容、或いは進化。意図的にそれを引き起こすことができるとでもいうのか。あまりにも非科学的である。だが実際こうして私の身に起こっていることはどう説明すれば良いのだ。何一つ理解が及ばない。
 こんなことがあって堪るかという困惑と、新たな未知との遭遇による期待や興奮。今抱くべき正しい感情など導き出せるはずもないが、どれも確実に私の中に存在していた。
 ようやく全身に力が入るようになり、緩慢な動作で起き上がる。倦怠感が酷いうえ未だ痛みは残っているが動けない程ではない。歩こうとした瞬間、バランスを崩して転倒した。手足の感覚が違うというだけでなく、どういうわけか重心が安定しない。再び転倒して、気が付いた。尻尾が生えている。それもなかなかに立派なものが。こんなものが身体に付いていたのだ、普通に歩行ができないのも納得である。
 慎重に足を進め、窓の傍に寄る。今は記録を残すより先に、自分がどうなっているのかを確かめたかった。
「……ハハ、」
 窓に映った姿に、図らずも笑いが漏れる。そこにいたのは、巨大な爬虫類のような何かだった。目、鼻、口、どれをとっても人間とは思えない。顔のみならず身体もそうだ。
 ――一体、この生物は何なのだ?
 人間であった時の名残が感じられるのは髪の毛くらいだろうか。それ以外はまるで『私』とは別物である。判断が難しいが声にもどこか違和感があった。どの部位がどの程度変化しているのか、調べられる範囲で調べておかねばなるまい。
 しかし、調査し記録したところで、それをどうするかという問題がある。研究成果は発表しなければ何の意味も成さない。いくら貴重だろうと稀少だろうと有益だろうと、眺めているだけでは等しく無価値だ。愛玩、それも良いだろう。理解はできるし、私にとって日々の観察や給餌、世話の類はそれにあたると言ってもいい。だがそれだけで何になる? 知ろうとすることは人間の権利であり、我々の義務なのだ。
 研究の結果何らかの成果を挙げたとして、人々に知られず消えていくのならそれはまさしく『死』と同義だ。今の私はまさに生と死の境界に立っていると言えよう。この身体に関する情報を残すか否か。実に悩ましい話ではあるが、残したところで一笑に付され捨て去られる可能性の方が高い。私でも、自身がこうなっていなければ全面的に信じることはできないだろう。それが貴重な情報を全て棄却する理由にはならないが。
 何にせよ、私はあれと一緒にこの場所を去るべきである。現在の私は間違いなく最高の『研究成果』であり『研究対象』であり『研究材料』だ。自信を持ってそう言える。だが、信頼のおける者以外にこの身体を預けるなど、考えただけでも恐ろしい。知識も理解も技術も無い者に身を任せるくらいならば自分で調べた方が余程マシだ。あの生物についてもそうだ。決して持ち逃げをしたいわけではないが、あれを置いていくのは色々な意味で危険すぎる。どうせ譲ると言われていたのだ。私と一緒に消えたところで何の問題もないだろう。
 もうすぐ空が白み始める頃だ。明るい中をこの姿で移動するのは賢い選択ではない。身を隠すなら一秒でも早く部屋を出るべきである。せめて彼女へ向けて何か書き残していこうかとも思ったのだが、こういう時に限って頭が回らない。結局、何も思い浮かばずにペンを置いた。
 できることなら、最後に彼女の顔が見たかった。何に悩んでいたのかを聞いてやりたかった。
「……クン。キミは、この姿を見たらどんな顔をしたのだろうな」
 私自身は、案外この姿も悪くないと思っている。自分の身体だと思うと妙な気分だが、これほどまでに興味深い存在にはそう出会えないだろう。しかし、他の人間が私と同じ考えを持つとは思わない。二足歩行の巨大な爬虫類など、空想の中にしか存在しないのだ。きっと、誰しも恐怖に顔を引き攣らせ絶叫するに違いない。――そう、彼女も、もしかしたら。
 あれこれと立ち去る理由を付けてはいたが、結局のところ、私は怖いのだ。君のことは信じている。信じているが、もし、朝やって来た彼女がこの姿を目にした瞬間に表情を歪め悲鳴を上げたら。その顔に拒絶の色を浮かべたら。こちらに背を向けて一目散に逃げ出したら。自身が嫌悪の対象になるかもしれないという可能性に、どうしても耐えることができなかった。改めて自覚したが、それ程までに自分は彼女のことを気に入っていたらしい。
 もう会うこともないであろう彼女の顔を思い浮かべて、自嘲に口元を歪める。馬鹿な事を考えていないで、もう行かなくては。急がねば夜が明けてしまう。必要最低限の物だけを鞄に詰め、人の気配が無いことを確認して廊下へ出る。ひとまず家に戻りたくはあるがどうしようか。そもそも、どこへ身を隠すべきか。浮上する問題は尽きない。
 不安や心残りが無いと言えば嘘になる。それらを完全に消し去ることは不可能だ。だが、それに囚われて立ち止まるという選択肢は存在しない。
 私は既に人間とは言えないが、知性は未だ残っている。疑問を抱き、自分が何をすべきかを考えることができる。それこそが私の生きる意味と言えるだろう。
 生を望むというのなら、何があろうと足を止めてはならない。思考を止めたその時に、私は死に至るのだ。





2020.05.19
サイト掲載 2020.06.18



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