私と君の不可解な関係について
気が付くと、風が頬を撫でていた。前回のゲームの時も思ったが一体どういう仕組みなのだろうか、と辺りを見回しながらは考える。ひとまずどこかに隠れた方が良いのだろうかと足を動かしたところで、通信機から軽いノイズと共に声が聞こえた。
『、聞こえるか?』
「ナワーブさん。はい、聞こえてます」
この通信機もどうやって動いているのかと不思議に思いながら、ナワーブの声に返事をする。今はそんな事を考えている場合ではないかとはひとり頭を振った。
『今自分がどの辺りにいるか分かるか? 何か目印になるようなモンがあったら教えてくれ』
「ええと……あ、目の前に――ライオンがいます……?」
何故こんなところにライオンが、と首を傾げつつもおそらく場所を伝えることはできるだろうと見たままを伝える。ナワーブの『あー……そこか……』という返事に、あまりよろしくない場所だったのだろうと悟ったは突っ立っているよりは良いだろうと壁のそばでしゃがみ込んだ。
『とりあえずその辺りは最初に見にくるハンターが多いから、誰かが見つかるまでテントには入らないで隅の辺りで隠れてた方がいいな』
「わ、わかりました」
『それなら私が近くにいるから、先に姿を見せてハンターの気を引くとしよう』
周囲にハンターがいないか確認しながら少しずつじりじりと移動をしていると、通信機からはマーサの声も聞こえてきた。その言葉の通り彼女も近くに飛ばされていたらしく、軽い足音がテントの方から響いている。おそらく中にある暗号機を解読しにきたのだろう。
「うう……すみません……ありがとうございます……」
『なに、気にすることはないよ。適材適所というやつさ――っと、来たな』
マーサがそう呟くが早いか、の心臓もどくりと嫌な音を立て始める。物陰に潜んではいるが、ハンターから見えたりはしていないだろうかとは落ち着きなく視線を巡らせた。自分が離れたら暗号機を解読し始めてくれというマーサの声に「わかりました」と声を返し、心音が落ち着くまで息を潜める。
『今回のハンターは魔トカゲだな』
『うげ、マジか……アイツ、的はデカいんだけどなんかこう視野が広いっつーか、タックルしても全然救助できねえんだよな……屋根が無いとこだと距離離してもすぐ詰められちまうし……』
声色からも苦々しい表情を浮かべているであろうことが分かるウィリアムとは対照的に、はマーサのハンター報告に思わず目を輝かせていた。
魔トカゲ。助手という立場であるとはいえ爬虫類の研究に携わっていたにとって、この上なく興味を惹かれるハンターである。ハンター一覧でその名称を目にした時からはできることなら早めに接触したいと考えていたのだ。それは彼女が荘園にやって来た理由にも絡んでくるのだが、大部分は純粋な好奇心からだった。
しかし接触したいとは言っても現在はゲーム中。チェイスが不得意な自分が無闇に姿を見せても他のメンバーに迷惑がかかってしまうだろう、と、ハンターを見に行きたい気持ちをぐっと堪えては暗号機の解読を開始した。
不規則に発生する調整もなんとか乗り切り、目の前にある暗号機の解読が終了する。次の暗号機を探しに行かねばとテントを出ると橋の上にぽつんとそれが設置してあるのが遠目に確認できたが、さすがにそこへ留まるのは自殺行為だろうとは別の方向へ足を向けた。
暗号機が設置される可能性のある場所も、どこに何があるのかすらも分からないまま足を進める。時折端末に飛んでくる他のメンバーのおおよその位置情報を確認して、チェイスをしているマーサの方には行かないようにと気を付けていたはずなのだが、不意に心音が大きくなり思わずその場にしゃがみ込んだ。少し離れた所から板を倒す音が聞こえ、そこに二人がいるのだと把握したはこそこそとその場を離れる。
物陰に身を隠すように少しずつ移動していると、ジェットコースター乗り場の辺りに暗号機があるのを発見した。それなりに見通しも良いが橋の上よりはマシなはずだ、とその暗号機の解読に着手し、同時に手元の端末を操作して自分の位置情報を他のメンバーに伝える。
周囲に視線を巡らせながらも解読を進めていると、ハンターの第一スキルが解放されたことを告げる鐘の音が響き渡った。救助に行くというナワーブの声に了解と返事をしながら解読を続ける。早く終わらせなければという焦りのせいか調整に失敗してしまい、鈍い痛みの走る手を軽く振ったは一旦落ち着かなければと深く息を吐いた。
「――その子たちに興味があるのかね?」
が彼と出会ったのは、大学内のとある研究室だった。
届け物を頼まれ研究室を訪れたはいいが部屋の主がおらず、どうしようかと室内を見渡していた彼女は窓際に並べられた水槽に目を留めた。そっと近寄り中にいる生き物を確かめ、思わず頬をゆるませる。そこにいたのは様々な種類の爬虫類であった。
彼女は昔から爬虫類を好んでおり、いつか自分で飼育をしたいとすら思っていた。周囲にはあまり理解してもらえず、特に同性の友人には近寄るのも嫌だと言う者も少なくなかったが、それでもは変わらず爬虫類を愛していた。そんなの前に、見たことのない種のそれらがずらりと並んでいるのだ。彼女がその光景に釘付けになってしまうのも無理はない。
そうしてしばらくの間夢中で観察を続けていたところに、背後から突然声がかかったのである。ぎくりと肩を跳ねさせたは勢いよく振り向き咄嗟に「すっ、すみません! 勝手に入って無遠慮にじろじろと……!」と頭を下げた。この声はもよく知っている。これまでに直接関わることこそなかったが、彼はが憧憬の念を抱いている人物であった。
「あぁ、いや、それは別に構いませんよ。害を加えようとしていたわけでもなさそうですしね」
だから頭を上げるといい、という声に、は姿勢を正し、声の主に視線を向けた。
まず目に入ったのは鮮やかな赤毛。若干猫背気味ではあるがそれでも高い身長と長い手足。表情は目つきのせいかどこか気怠げにも見える。しかし言葉の通り怒気のようなものは感じず、むしろ口元はゆるやかに弧を描いていた。
「皆可愛らしいでしょう。観察しているとたまに欠伸をしたりもするんですよ」
ゆったりとした足取りで窓際に近寄った彼は、愛おしそうに水槽をひと撫でした。は「へぇ……!」と目を輝かせ水槽の中に視線を戻すが、はっとして再び彼に向き直った。
「あ、あの、教授! ええと、クリフォードさんにこちらの本を届けてほしいと言われたんですが……」
「あぁ、それか。ありがとう、助かったよ」
彼はが抱えていた数冊の本を受け取りぱらぱらと軽く中身を確かめるようにページを捲ったあと、机の上にそれらを置いた。
「そ、それじゃあ私はこれで――」
「……君、今時間は大丈夫ですか?」
「えっ? は、はい、この後は特に予定も無いので大丈夫ですが……」
用を済ませたからここに留まっている理由もないだろう、と、名残惜しさを感じつつも退室しようとしたを低い声が引き留めた。何か気に障ることでもしてしまったかと落ち着きなく視線を向ければ、彼はふっと小さく息を吐いた。
「そう恐れずとも、取って食ったりはしないさ。君さえ良ければだが、たまに私の部屋の掃除を手伝ってくれないかと思いましてね」
「へ……掃除、ですか?」
「ああ。一応清掃員もいることにはいるんですが……どうにもこの子たちのことが苦手なようでね」
どうせなら好感情を持っている者に頼んだ方が良いだろう、と続く彼の言葉にはなるほどと頷いた。
「あ、でも、その方のお仕事を取ってしまうことになるんじゃ……」
「心配せずとも、彼には継続してここの清掃を頼むつもりですよ。特に減給も考えてはいない。君にお願いしたいのはその水槽周りだ。彼は苦手なものに近付く機会が減るし、私は毎回覚束ない手つきで水槽を扱う彼が何らかの拍子にそれを割りでもしないかと気を揉む必要がなくなる。君にとっても悪い話ではないと思うのだが……どうだろうか?」
彼の提案は彼女にとって願っても無いことだった。愛する爬虫類たちに囲まれたうえ、尊敬する教授の手伝いができるのだ。彼女の頭の中には既に引き受けるという選択肢以外残っていなかった。
「そ、そういうことなら……私でよろしければ、ぜひ……!!」
「ありがとう、よろしく頼むよ。あぁ、勿論対価は払いますし、水槽を開けなければこの子たちの観察も自由にしてくれて構わないので」
ぺこぺこと頭を下げる彼女の前で、彼は交渉成立だと笑った。そうして、は定期的に彼の研究室を訪れるようになったのである。
初めのうちは言われた通りに水槽周りの掃除や片付けをしていたが、しばらくすると、彼がそれまで一人でしていた爬虫類の世話の一部を任されるようになった。この頃から彼の研究の手伝いも頼まれるようになり、は喜んでそれを引き受けていた。
またしばらく経ち、彼は卒業後のことで悩んでいたに、正式に自分の助手として働くつもりはないかと提案をした。無理にとは言わないが優秀な君を手放すには惜しい、手伝いだけでなく君自身が興味のある分野について研究をするといい、といった言葉と、働くことになった場合の様々な条件を告げられたは、悩み抜いた結果彼の下で働くことを決意した。両親にこそ反対はされなかったが、友人には理解できないという顔をする者もいた。確かに一般的な『女性が就くべき職業』というものとはかけ離れていたし、もっと安定した道も選べたであろう。しかし、は彼の下で働くということが自分にとって幸福な道だと、そう信じてその選択をしたのである。
事実、働き出してからというもの、彼女の生活は以前に増して有意義なものとなった。敬愛する教授の手足となって働けるうえ、自由に自分の研究も進めることができる。その研究が行き詰まった時は彼が助言をしてくれることもあり、にとってこの時期が人生で一番幸福であったと言えるだろう。
だが、その幸福な時間も長く続くことはなかった。彼女たちの日常に罅が入ったのは、彼の何気ない一言からだった。
「トンプソン教授から珍しい蛇を戴いたんですよ」
どこか浮ついたような声音で発された彼の言葉に、はほんの少し眉をひそめた。
「蛇ですか? ……トンプソン教授から?」
「ああ。私も見たことのない――おそらく新種の蛇なんだがね、調べさせてくれと頼んだら快く譲ってくれたんです」
その台詞を聞いては更に不信感を募らせた。彼女の前で興奮気味に話す彼のことをトンプソン教授が快く思っていないということは一部の人間には周知の事実である。
そんなトンプソン教授が珍しい蛇を手に入れたからと彼に見せ、挙句あっさりとそれを手渡すなどということが果たしてあるのだろうか。彼らを知る者たちに聞けば全員がありえないと首を振るだろう。目の前の彼もそのくらいはなんとなく察しているはずなのだが、どうやら新種の蛇に夢中になってしまってトンプソン教授のことなど既に眼中にないようだ。
「現段階では毒液の人間への効力が不明だから触らせるのは少し難しいが、今度君にも見せてあげよう。きっと君も気に入りますよ」
「――ありがとうございます、教授。楽しみにしてますね」
楽しげに笑うその様子は浮かれていると言っても過言ではない。そんな彼に水を差すことも憚られ、もまた彼に倣って笑みを浮かべた。
この時に彼の機嫌を損ねてでもその蛇を今すぐ手放してくれと訴えるべきだったのだ、と、彼女は後に酷く後悔をすることになる。
その会話があった数日後。いつも通りやって来たは人気の無い部屋を見渡し、教授はまた実験室にこもっているのかと溜め息をついた。この時間に彼がそちらにいるということは、昨夜は家に帰っていない可能性が高い。朝食、あるいは夕食もとっているか怪しいなと頭の中のタスクリストに食料の買い出しを加えながら、は実験室の扉に手を掛けた。
「おはようございます、教授。今日はちゃんと朝食とりまし、た――」
部屋に足を踏み入れようとした彼女は、目に入った異様な光景に思わず声を失い立ち尽くした。床に飛び散った赤黒い液体と、その中に転がる数枚の板状をした何か。小さく一歩踏み出せば嗅ぎ慣れない臭いが鼻をかすめ、は床に広がる液体が血液であると確信した。
「っ、……教授!? どこにいるんですか、教授!」
落ちているものを踏まないように気を付けながらも、実験室の中を慌ただしく探し回る。しかし部屋の中には大人一人が身を隠せるような場所はそうそうない。ありえないと思いつつ机の下を覗き込み、どこにも彼の姿がないことを確認した彼女は騒ぐ心臓を落ち着かせるように服の胸元を握り締めた。ひとまず落ちている物体を確認しようと散乱する血塗れの物体に近付き、静かにそれを観察する。
「……これ……もしかして、鱗……?」
くすんだ緑色をしたそれは非常に大きく、彼女が知る生物にこのような鱗を持つものはいない。しかし目の前の物体はおそらく何らかの生物から剥がれ落ちた鱗だろうと彼女は推測した。
先日彼が譲り受けたという蛇だろうか。少し前に「ようやく見せてあげられそうだ」と言われ、警戒はしつつも少なからず楽しみにしていた件の蛇。そういった話は聞いていないが、これ程の鱗を持つ巨大な蛇だったのだろうかと首をひねる。
何にせよ、早急に彼のことを探さなければならない。彼は少々危険な実験でも臆せず行うところがある。誰もいない実験室でひとり床に倒れ伏している、といったことが何回かあったほどだ。『本当に肝が冷えるからせめてそういった実験を行うのは自分が傍にいる時だけにしてほしい』とが頼み込んで以降彼はそれに従ってくれていたのだが、やはり新種の蛇という魅力の前には抗えなかったのだろうか。先日の彼の発言から考えると、もしかしたらあの時には既に毒液の投与を済ませていたのかもしれない。彼の知的欲求をたかが『お願い』一つで抑えることができるなど、できるはずがなかったのだ。自分の考えが甘かったとは唇を噛む。
しかし、仮に実験の結果彼の身に何かが起こったのだとしても、何の書き置きすらもなくこんな状態で部屋を放っておくのは明らかに異常事態だ。自分の早とちりであるならまだ良い。いつものように気怠げな顔をした彼が「何を慌てているのかね」と部屋に戻ってきてくれたなら。事情を聞いて、何を馬鹿なことをと、心配はいらないと、そう笑い飛ばしてくれたなら。
それならそれで一向に構わない。けれど、あの床に広がった血液が彼のもので、現在彼がどこかで大変なことになっているのだとしたら。悪い考えばかりがの頭の中をぐるぐると巡っていた。
部屋を出て遭遇する人々に彼を見なかったかと尋ねて回るが、今朝は見ていないという答えばかりだ。時刻はもうすぐ最初の授業が始まる頃で、一旦部屋に戻ろうとは踵を返した。これで彼が部屋にいてくれればいいが、もし戻っていないようなら本格的に他の者にも協力を仰いだ方がいいのかもしれない。そんなことを考えながら、彼女は一層足を早めた。
結論から言うと、彼はどこにもいなかった。
大学内にも、彼の住んでいる部屋のどこにも、その姿は無かったのだ。泊まりがけで何処かへ出かけたのではと言う者もいたが特にそういった痕跡はなく、結局、彼については失踪という形で調べられることとなった。
しばらくは彼女もそれまで通り彼のいなくなった部屋で爬虫類の世話をしたり研究を進めたりしていたが、依然として彼は見つからず、遂に部屋を他の教授に明け渡すようにと告げられた。何の権限も無い助手しか残っていないのだし妥当な処遇だとは受け入れたが、やはりショックではあった。もうここに彼の居場所はないのだと、言外にそう言われたも同然だ。とはいえいつそう言われても良いように荷物は一通り纏めていたし、部屋の移動は存外呆気なく、速やかに完了した。
彼は一体何処へ行ってしまったのか、早く見つかることを祈っているよ、などと、心にも無いであろうことを口にするのは彼の部屋を明け渡された――正確には元の場所へ戻ってきたとも言えるが――トンプソン教授である。「どの口がそんなことを」と口をついて出そうになった言葉をすんでのところで飲み込み、は「そうですね、ありがとうございます」と曖昧に微笑んだ。
もしかしたら本心からの言葉だったのかもしれないが、それは万に一つも無いと彼女は確信していた。彼が姿を消したあの日、その一報を耳にしたこの男がほんの一瞬浮かべた笑みをは見てしまったのだ。困惑や動揺もあるようだったが、安堵や愉悦、醜悪な感情を煮詰めたようなあの表情を彼女は一瞬たりとも忘れてはいない。
この男が渡したという蛇が彼の失踪に絡んでいるのは最早明確な事実である。問い詰めたところでシラを切られるだけだろうと予想はつくので口には出さないが。
彼がいなくなった今、公平な目でものを見ることができる者が少ないこの場所で自分の待遇がどうなっていくかなど想像に難くない。が、は別の教授の助手としてでも構わないからと大学への在籍を望んだ。人事の人間は何も知らないのかそれとも知っていてわざとそうしたのか、彼女はトンプソン教授の助手という形でそのまま雇用されることとなった。
初めこそ最悪だと叫びたくなっただったが、ふと、これはチャンスだと思い直す。あの忌々しい男に媚びを売るなど吐き気を催すどころの話ではないが、あの男が自分に気を許してくれれば何かと楽になるはずだ。『その時』までは耐えて、耐えて、静かに牙を磨くのだと、彼女の頭の奥で何かが囁いた。
憎しみすら覚える相手に愛想良く振る舞うのは、非常に精神のすり減る行為である。並べられた水槽の前で深く溜め息を吐いたは、自分を見つめる愛らしい瞳に肩の力を抜いた。この小さな生き物たちと触れ合っている時間が、一番心が安らぐ。
部屋を空けている間に増えている書類や封書はいつものことで、面倒だなと思いつつも彼女はそれらに手を伸ばした。数が少ないうちに簡単な整理くらいはしておかないと、後でもっと面倒なことになる。在りし日の彼を見ていて学んだことだ。
「……? 何だろ、この封筒……」
上等な紙が使われているということが一目で分かる封筒は、手にしたものの中でも異質な存在感を放っていた。自分宛であることを確認し、大きさの割に重みのあるその封筒を開封する。中のものを確認した瞬間、の手から力が抜け、封筒は重力に従って床に落ちた。封筒から飛び出し、かつん、と鈍い音を立てて転がり出た『何か』を、は震える手を伸ばして拾い上げた。
「これ……あの時の……」
くすんだ緑色の、大きな鱗。間違いない、彼がいなくなったあの日、部屋に落ちていたのと同じものだ。
どうしてこれが、ともう一度封筒を確認した彼女は一枚の便箋が入っていることに気がつき、それを取り出した。
(ゲームへの招待状……ゲーム? 『きっと探しものが見つかるでしょう』――探しもの、って……まさか……)
綺麗な文字が並ぶ便箋と控えめに光を反射する鱗とを交互に見やり、は息を飲んだ。こんなものは悪戯だと頭の中の冷静な部分が訴えてくるが、それ以上に、彼に会えるかもしれないという可能性を見出した自分がこの場所へ赴くべきだと強く主張している。それに、ただの悪戯にしては手が込みすぎている。あまりにも自分にとって都合の良い話であるとは思いながらも、少しでも希望があるのなら行ってみる価値はあるとは判断した。
(それにしても、この『お連れ様はお一人まで』ってどういう――)
手紙に書かれた一文にはてと首を傾げたは、ふと目の前の生き物たちに目を留めた。
「もしかして……この子たちのこと?」
考えてもわざわざ連れ立って行こうと思える人物など彼女には思いつかないし、おそらくそれが正解だろう。彼らと離れるのは寂しいが、確かにこれだけの数を連れて行けるはずもない。しかし彼に会えるのならば、たとえ一匹だけだとしても元気な姿を見せたいという気持ちはある。どうしようか、と迷う彼女は、じっと自分を見つめている一匹のトカゲと目を合わせた。
「……一緒に来る?」
勿論言葉が通じているとは思っていないが、何となくそう声をかけてみれば、の声に応えるように彼は水槽の壁を引っ掻いた。その仕草が可愛らしく、思わず笑みをこぼしたは『この子を連れて行こう』と決めた。が彼のところに足を運ぶようになった後に増えたそのトカゲは、彼女にとって思い入れのある個体だ。
他の子の世話はたまに手伝ってもらっていた教授や学生に任せようと手早く書き置きを残した。教授の方には帰る前にも一声かけていこう、自分が必要なものは最低限にしてこの子が弱ってしまわないように用意をしないと、などと色々頭の中で考えながら、早急に対応しなければならない書類だけ分けて片付けていく。自分はこんなに早く動けたのかと感動してしまうほどの勢いでそれらを処理したあと、は早々と帰り支度を済ませた。
「きっと、教授を連れて帰ってくるからね」
並んだ水槽の中で思い思いに過ごしている彼らに一言告げて、一匹のトカゲだけが入った小さな水槽を持ち上げる。
向かう場所はエウリュディケ荘園。きっとそこに彼がいる。未知の場所への不安と彼に会えるかもしれないという希望を胸に、は部屋を後にした。
「わ、かわいい! 新入りちゃんですか?」
「ええ。先日出会ったんですが、どことなく心惹かれるものがありましてね。よかったら君に名前をつけてもらおうかと」
「えっ! いいんですか!? え~、どうしよう……私、あんまりそういうセンスがなくて……うーん……うん?」
「どうしました?」
「いえ、その……この子、なんとなく教授に似てるなあと思って……」
「似ている? 私に?」
「決して悪い意味じゃないんですけど! ほら! なんていうか、このどことなく眠そうな感じとか……!」
「成程。君が私をどういう風に見ているのかはよく分かりました」
「違うんです! 悪い意味じゃないんですってば! あ、あー、名前かー! どうしようかなー!」
「話題の逸らし方が恐ろしく下手だな君は」
「言わないでください! うーん……でも本当に名前どうしよう……でぃ……いや……うーん……る、る……」
「…………」
「ルカなんてどうでしょう!」
「……君……君、まさかとは思うが」
「はい! 偉大なる教授のお名前からインスピレーションを得ました!」
「はぁ……まあ別に構わんがね。いい名前だと思いますよ」
「ありがとうございます教授! この子のことは教授だと思って大切にお世話しますね!」
「……反応に困るんだが」
「よろしくね、ルキノ――じゃなかった、ルカ!」
「君、それはさすがにわざとだろう」
「あっごめんなさい教授怒らないで!」
マーサが脱落したあとにチェイスを引き受けてくれていたウィリアムが脱落した。二人ともそれなりに時間を稼いではいたのだが、解読担当とも言えるが暗号機の場所を把握できておらず、たまにチェイスしている場所に近寄ってしまい隠れるというようなこともあったため、暗号機は未だ残り二台であった。
申し訳なさで押し潰されそうになりながら、はようやく辿りついた建物の中の暗号機の解読を始めた。そこに丁度ナワーブから通信が入る。
『、今触ってる暗号機の進捗はどのくらいだ?』
「あっ、えっと、たった今触り始めたばかりなので、まだ全然進んでいなくて……すみません……」
『いや、別に謝んなくていいって。さっきも言ったけど、最初なんて皆そんなもんだよ』
だから気にすんな、と続く彼の言葉に、また重ねそうになった謝罪を飲み込んで「ありがとうございます」と返す。言葉を交わしながらも解読を進め、進捗は現在一割といったところか。先程一瞬だけ心臓がざわりとした気がするが、ナワーブ曰くハンターは彼の方に向かっているらしい。だとすると、先にここを終わらせて既に八割程終わっているという彼の暗号機を引き継ぐという形になるだろう。カタカタという無機質な音が響く中、『あ? アイツ何であんなとこに――』というナワーブの呟きが聞こえたと思うと、何かに気が付いたように息を飲んだ彼が声を上げた。
『! 今すぐそこから離れろ!』
「え?」
ハンターの気配はしないのにどうして、と思いつつも言われた通りその場を離れようとした瞬間、それまで静かだった心臓が突然大きく跳ねた。
「っ!?」
暗号機から手を離そうとしたタイミングで調整が発生したが慌てていたはそれに対応することができず、暗号機はばちんという大きな音と共に火花を散らす。彼女の手は感電して痛みを訴えていたが、直後にそれ以上の衝撃が彼女の体を襲った。咳き込みながらも外へ逃げようと足を動かすが、背後からもう一度強い衝撃を受けてはそのまま倒れ込んだ。
自分に何が起こったのか、何をされたのかが全く分からず、混乱しながらも距離を取ろうと重い身体を引き摺る。ぺたぺたとこの場にそぐわない足音が近付いていることに気付き、は顔を上げた。
「!」
それは確かに、爬虫類のような何かであった。トカゲかと言われるとどうだろうと首を傾げてしまうが、では何なのかと言われるとそれも難しい。脚部に目を向けたはその筋肉の発達具合を見てなるほどと納得した。おそらく跳躍して外から入ってきたのだろう。今の今までまるで気が付いていなかったが、この空間には天井が無い。突然心音が大きくなったのも頷ける。
くらくらする頭でそんなことを考えているの目の前でハンターは少しの間動きを止めていたが、思い出したように風船を取り出して彼女をその尻尾で持ち上げた。
「きゃあ!?」
は思わず悲鳴を上げたが、恐怖というよりは歓呼に近い声色になってしまい思わず口を押さえる。大きな爬虫類に尻尾で持ち上げられるという体験に正直感動しているのだが、さすがにここで喜ぶのは他の仲間たちに悪い気がするし、何より痛めつけられて喜んでいるように捉えられかねない。自粛せねばと思いながらも視線はハンターの方へと向いてしまう。先程は頭の方まで見えなかったため気が付かなかったがこのハンターは長く伸ばした赤毛を編み込んでいるらしく、『なかなかのお洒落さんだな』と彼女は場違いなことを考えていた。
一応抵抗はしていたのだが抜け出すことはかなわず、はそのまま椅子に括り付けられてしまった。うねうねと動く何かを椅子の前と少し離れた地面に設置してナワーブがいるであろう方向を向きながら歩くハンターを目で追っていると、ナワーブの声が聞こえた。
『、悪い。俺がもうちょっと早く気付けてたらよかったんだが……』
「ナワーブさんのせいじゃないですよ! それに、ええと……監視者? があるみたいなので、多分隠れられたとしてもどっちみち見つかってたと思いますし……!」
『あぁ、飛んで来ないから何に変えたのかと思ってたけど、監視者か……それだと確かに隠密は厳しいな……とりあえず助けに行くから、自由になったら真っ直ぐテント――俺が今いる方向に逃げろ。いいな?』
ナワーブの指示には分かりましたと頷く。彼がこちらへ走ってくる姿は頼もしくもあるが、同時に申し訳なさも感じる。自分がもう少し早く動けていたら彼が無駄に傷付くこともなかったかもしれないのに。早くこの『ゲーム』にも慣れなければ。そんなことを考えつつ、ひとまずは救助されたあとのことを考えようと彼女は近付いてくるナワーブの姿をじっと見つめる。助けられたら今自分がいる方へ逃げろ、前だけを見て走れと彼は言っていたが、そのあとはどうすればいいのだろうか。彼が解読していた暗号機の引き継ぎか、ハンターから身を隠すのか。そもそもハンターは自分の方を追ってくるだろうからとりあえず暗号機が無い方へ行った方が良いのではないか。
答えはまだ出ていないが、彼の姿はもうすぐそこだ。まだ距離があると思っていたが、気が付いたらナワーブが目の前にいて拘束も解けていたのでは一瞬固まってしまった。
「行け!!」
ナワーブの声にはっとして走り出す。少し走ったところで後ろから小さく呻き声が聞こえ、思わず振り返りそうになったが「前だけ見てろ! そのまま走れ!」という彼の声に背中を押されてそのまま足を動かした。そうして橋の辺りまで来たは、ハンターが自分のことを追ってきていないことを確認してその場にへたり込んだ。息が整ってきたところで、ようやく彼が椅子に括り付けられていることに気が付く。
「な、ナワーブさん、ごめんなさい、私、」
『謝らなくていい。そもそもあの状況から確実にアンタを逃がすにはこれが最善だったんだ。まあ、共倒れになる可能性も充分あったけどな』
何でもないことのように言うナワーブに、は胸が締め付けられるような心地がした。彼は最初から身代わりになるつもりだったのだ。足手まといの自分など見捨ててくれて構わなかったのに、と思うが、前回のゲームでも彼は自らがどれだけ傷付こうとも最後まで自分のことを助けようとしてくれていた。
先日対峙したハンターは残り二人の段階でダウンしたを復帰させては追い回し、その後またダウンさせてという行為を繰り返していた。おそらく、通電しようがゲートが開こうが、あのハンターはが力尽きるまでは他の者など気にかけることはなかっただろう。それはきっとよりもずっとゲームやハンターのことに詳しい彼には分かっていたはずで、逃げようと思えば逃げられたはずなのだ。それにも関わらず、ナワーブはどうにかしてを逃がそうと奮闘していた。その努力も虚しくが目の前で『失血死』したあと、ダウンしていた彼も椅子で飛ばされたのだが。
あの時も対戦後に見捨ててくれて良かったのにと言ったのだが、彼には「見捨てるくらいなら助けに行ってやられた方がマシだ」と言われ、一緒にそのゲームに参加していた他のサバイバーにも「彼はそういう人間なんだよ」と言われた。そう口にした彼も何ともいえない表情――その人物は物理的な意味で表情を読みにくい青年であるため、実際どういった表情なのかきちんと読み取ることはできなかったが――をしていたから、本当のところは彼の行動をあまり好ましくは思っていないのだろう。
彼には彼の信念があるのだろうが、それでもはただ申し訳ないと唇を噛んだ。
『いいか、今回はテントの奥の辺りにハッチが出てる。コイツは俺が飛ぶまで動く気なさそうだから、それまでに見つけてそこで待機しててくれ』
「テントの……奥……」
テントは橋の向こう側に見えるあれのことだろう。その奥、というと、最初に自分がいた辺りだろうか。とりあえず彼の言葉に従ってそちらの方に向かう。
だがナワーブは知らなかった。彼女がそこそこ重度の方向音痴であることを。やたら暗号機を探すのに時間がかかっていたのも、うっかりチェイスルートに飛び込んでしまうのも、初心者にありがちなミスというよりは彼女の元々の気質によるものが大きかったのだ。
案の定、彼女はハッチが出現している場所とは大分ずれたところを探しており、見つからないと右往左往していた。
「ナワーブさん……すみません……それらしいものが全然見つからなくて……やっぱりナワーブさんが逃げてください……」
『はあ!?』
幸い、誰かが座らされている椅子はサバイバーからも視認できるようになっているため、は半泣きになりながらそちらに向かっていた。ナワーブからもある程度の位置は分かるが、今から彼女が自分の方へ来ても間に合わないことは確実である。彼は何とかを説得しようと声を荒げた。
『無茶言うなよ! まず、アンタ負傷状態だろ……! そんな状態で何ができるって言うんだよ!』
「でも本当に見つからなくて…………」
情けなさやら申し訳なさやらで本格的に泣きそうになっているの頭上では、カラスがけたたましく鳴きながら羽ばたいている。通信機の向こうからは『あーもう』だとか『いやでもコイツならまだ……』だとかいう声が聞こえてきた。彼が脱落するまではあと一分もない。
『……多分、大丈夫だから。適当に座って待ってろ』
「へ……」
彼を乗せた椅子が飛んでいく瞬間にそんな言葉をかけられ、は足を止めた。
座って待っていろと、確かに彼はそう言った。変わらず頭上ではうるさくカラスが鳴きわめいているし、ハンターも程なくしてやってくるだろう。ハッチの場所も分からずハンターから逃げ切る自信も無い自分はどちらにせよその場で蹲っているしかない。近くに椅子もあるし、この椅子で飛ばしてもらおうとは諦めの境地にいた。
少しずつ心音が大きくなる。すぐ近くで足音が止まったかと思えば、少しの間を置いてどこか懐かしさを感じる声がハンターから発せられた。
「……――――」
思わずがばりと顔を上げ、はまじまじとハンターの顔を見つめてしまった。今の声は、本当に目の前の彼から聞こえたのだろうか。声というよりは音と言った方が正解に近いが、そんなものは現在彼女が抱いている疑念の前では瑣末なことである。一歩退いた彼は、ゆっくりとその武器を仕舞いながら再び口を開いた。
「――――、――――――。――――」
つい先程までサバイバーを襲っていたとは思えない程落ち着いた、理知的な声色。何を言っているのかは全く理解できないし、若干記憶との差異はあったが、彼女はこの声に覚えがあった。
先程彼を目にした時から、ずっと心に引っかかっていた違和感。彼が身に纏っている、大きくて硬そうな緑色の鱗。まさかそんなことがと初めから考えもしていなかった、ひとつの可能性。
「あの……もしかして、教授……?」
心臓がうるさく音を立てるのは、きっとハンターが近くにいるからというだけではない。震えが抑えられない声で彼に問いかけるが、彼は困ったような表情を浮かべて何かを口にするだけだった。向こうの言葉が理解できない時点でそうではないかと思っていたが、やはりこちらの言葉も伝わっていないようだ。
どうしたものかと言わんばかりに立ち尽くしていた彼は、諦めたようにひとつ息を吐くとこちらへ来いと言うように手招きをした。戸惑いつつも、彼についていくしかないは立ち上がって覚束ない足取りでそちらへ歩き出す。
足を縺れさせながら歩く彼女を気遣ってか、ハンターは時折立ち止まってが横に来るのを待ち、追いついたのを確認すると再び足を進めるという行動を繰り返している。そうして足を進めて数分、先程彼女が探し回っても一向に見つからなかったハッチが、二人の前で口を開けて待っていた。
何かを言いながら促すように顎をしゃくる彼に、は「あの」「でも」と近くの椅子にちらちらと視線を送る。わざわざこんなことをして彼にメリットがあるわけでもないだろうに、いいのだろうか。それに、まるで役に立っていない自分だけがハンターの情けで脱出させてもらうなど、他のメンバーにも申し訳なさが募る。
「――、――――。――――――」
そんなを見た彼は溜め息をついて、また何かを口にした。相変わらず何を言っているのかは分からないが、どこか気怠げな様子で首の後ろを摩る彼は本当に見逃してくれるようだ。それならば無駄に時間をかけても迷惑だろうと、はそそくさとハッチの前に移動する。
「……ありがとうございます、」
ぺこりと頭を下げ、これはただ飛び込めばいいのだろうかと不安を覚えながら、彼女はハッチに飛び込んだ。
浮遊感にぎゅっと目を瞑っていたが、気が付くとそこは待機場所の横にある小部屋だった。
「お疲れ。……大丈夫だっただろ」
そこはかとなく物言いたげな顔をしたナワーブが、小部屋に置いてあるベッドのひとつに腰掛けている。
の感謝と謝罪の言葉に小さく息を吐いて「別に、変なことが無かったならそれでいい。また次頑張ろうぜ」と立ち上がったナワーブは、彼女の『ハンターとゲーム外で会うにはどうすればいいのか』という質問に目を瞠った。
「いや、アンタ……正気か?」
信じられないというような顔でを見る彼に、何から説明したものかと曖昧に笑う。とりあえず他のメンバーにもお礼を言いたいからとは部屋の外に足を向けた。
やたらと長い廊下を歩きながら、彼女はかいつまんで事情をナワーブに話した。探し人がいることは既に他のサバイバーにも話していたが、おそらく先程対峙した彼がそうなのだと。だからハンターのところへ行く方法を教えてほしい、彼と話がしたいのだ、と詰め寄られたナワーブはそんなことがあって堪るかと頭を抱えた。
しかしながら彼女は全く折れる様子を見せないし、それじゃあこの名前を聞いたことがあるかと彼女が口にした名前は、確かにナワーブにも覚えがある名前だった。が粘りに粘って引き下がった結果、降参したのはナワーブの方だった。
ゲーム外での殺傷はご法度というルールではあるが絶対に無茶をするなと約束をした上でハンターに会う方法を教えてもらい、は早速彼の元へと向かっていた。
(やっと、やっと会える……!)
赴くのはハンターのところだというのに、浮つく心は抑えられない。駆け出しそうになるのをぐっと堪えて、彼女は足を進めた。
彼女が敬愛してやまない、ルキノ・ディルシ教授の元へと。
2020.01.06
修正 2020.07.05
title:レイラの初恋
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