異世界からの招待者



 頭上を飛び交う聞き慣れない声に、ゆっくりと意識が浮上した。
 ……この声は何だろう。昨日の夜はテレビを見ながら寝落ちしてしまったんだっけ。いや、スマホで動画を流しっぱなしにしながら、という可能性も捨てきれない。
 何故だかよく思い出せない昨日の夜のことに思いを巡らせながら寝返りをうつ。目蓋越しにうっすらと光を感じ、明かりも付けっぱなしだったのかと自分のだらしなさに溜め息をつきたくなった。
「――,――――」
「――――」
 しかしこれは本当に画面の向こうから聞こえてくる声なのだろうか。それにしては声の聞こえてくる位置がおかしい気がする。テレビにしては近すぎるし、スマホだとしたらこんな風に上から降ってくるようには聞こえないはずだ。
 ――これではまるで、寝ている私を取り囲むようにして会話をしている人物がいるような聞こえ方ではないか。
 その考えが頭に浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った気がした。
 私は現在一人暮らしをしている。同居人は存在しない。たまに友人や家族が訪れて泊まっていくということはあるけれど、今日は特にそういったこともなかった……はずだ。自分以外に誰もいないこの部屋で声がするなんて、そんなことはあるはずがないのだ。それこそ、テレビが付けっぱなしになっているということでもなければ。
 夢と現実の境界が曖昧になっているのか、自分の部屋に誰かが入り込んでいるのか、はたまた心霊現象の類なのか。あらゆる可能性を考える。
 一番可能性が高く危険もないのは夢と現実を混同している説だけれど、それにしては意識がはっきりとし過ぎている。肌に感じる空気や指先が触れている服の感触も、起きている時と何ら変わりない。そういう夢――明晰夢だったっけ、それの可能性もあるけれど、これまでに一度もそんな夢を見たことはないし、その可能性は低い。
 そうすると自然に選択肢は『実際に誰かがいる』か『人ではない何かがいる』の二択になる。自分にとってマシなのは果たしてどちらだろうか。私は幽霊や怪奇現象といったものは信じていない。けれど、身の危険が少ないのはどちらかというとそちらだろう。よくあるホラー映画みたいに取り憑かれて死ぬみたいなことにさえならなければ、だけど。
 とりあえず寝たふりを続けながらそんな事を考えていると、すぐそばから衣擦れの音がして思わず体に力が入った。……間違いない。自分ではない誰かが横にいる。聞こえてくるのは日本語ではないから、おそらく日本人ではない男だ。それが、最低でも三人。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。頭の中がぐちゃぐちゃになって、全身が心臓になってしまったかのような錯覚に陥る。意識しないと呼吸も乱れてしまいそうだ。どうにかしてこの状況を抜け出したいけれど、じゃあどうすればいいのだろうか。
 勢いよく起き上がって相手が怯んでいる隙に逃げる? 駄目だ、相手についての情報が足りなすぎる。もし部屋の入口を塞ぐように立たれていたらどうしようもないし、すぐに取り押さえられてしまうかもしれない。
 そもそもこの男たちの目的は? 強盗? 強姦? 夜中に忍び込んでくるくらいだ、誰が住んでいるかなんてことは調べているだろうし、やはり後者だろうか。もしかしたら、ただ人を殺したいみたいな狂った考えの持ち主なのかもしれないけれど。
 ただの強盗ならこのまま寝たふりをしていればやり過ごせる可能性もなくはないだろうけど、正直、強盗ではないと思う。わざわざ家主がいる時に忍び込んでくるのもそうだし、寝ている方が都合が良いだろうにその周りで悠長に会話をしているというのも気にかかる。見られたらどうとかでなく最初から殺すつもりならば先に殺しているだろうし。
 どうしたものかと考えあぐねていると、ふと頬に冷たい何かが触れた。まずい、声こそどうにか飲み込んだけれど思いっきり体が強張ってしまった。バレていませんようにと願いつつ寝たふりを続行するも、くすくすと可笑しそうな笑い声が降ってくる。ああ無理だ。これは完全にバレている。
「......Jack,」
 別の位置からどこか咎めるような声が発された。なるほど、私の前にいるのはジャックという男らしい。やはり日本人ではなかったようだ。
 しかし一人で暮らしている女の家に外国人の男数人が忍び込んでいるという現実離れした今の状況には乾いた笑いすら出てこない。本当にどうしたらいいんだろうこれ。
 尚も目を閉じたままの私が面白くないのか、ジャックなる男が何かを言いながら頬をつついてくる。地味に痛い。こんな状況でなければ文句の一つでも言いたいところだけれどさすがにそんな勇気はない。
 ……さて、促されているからという訳ではないけれど、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。狸寝入りもとっくにバレていることだし。こうなったらもう腹を括るしかない。いい感じに媚びれば命までは取らずにいてくれる相手だと信じよう。命さえあればどうとでも――いや、どうかな……生きてる方がつらいなんてこともあるからなあ……。
 そんなことを考えつつそうっと目蓋を持ち上げる。それほど明るくはないけれどずっと暗闇の中にいた瞳には刺激が強い。何度かぱちぱちと瞬きをして、周囲の状況を確認し――…………。
「Good morning, sleepyhead」
 私の顔を覗き込んだ『何か』がそんな言葉を発したのを聞きながら、無言で再び目蓋を閉じた。
「Hmm...?」
 やっぱりこれは夢だ。そうに違いない。だって、現在私の前で不思議そうな声をこぼしている男も、その後ろにいた男も、およそ人間とは言い難い容姿をしていた。やたらと身長が高いというかサイズ感がおかしいのは、まあ、外国の人だからと言えなくもないかもしれない。
 しかし、だ。まず目の前の男は不自然に身体が細く、左手の指が刃物のようになっていた。先程私の頬に触れていたのがどちらの手だったのか、考えただけで背筋が凍る。一見可愛らしくも思える仮面を着けていたけれど、それがまた得体の知れない不気味さを醸し出していた。
 そして後ろにいた二人。片方は他と比べるとまだ人間らしい見た目ではあったけれど、問題はもう一人の方だ。あれは完全に人間ではない何かだった。SF映画にでも出てきそうなその姿は爬虫類を彷彿とさせるもので、大きな身体も相まって圧倒的な存在感を放っていた。これまでに触れたことのある作品になぞらえて呼ぶとすれば、レプタリアン、もしくはリザードマン辺りだろうか。どちらにせよ人間でないことには変わりない。特殊メイクだとか無駄に精巧な着ぐるみだとか、そういうものだったらいいのに。
 ――それに加えて、かなり重大な事に気付いてしまったのだけれど。ここ、私の部屋じゃない。てっきりこの男たちが部屋に侵入してきたものだと思っていたのだが、どこからどう見ても私が住んでいる部屋ではなかった。
 どこか古めかしい雰囲気の部屋に置かれた大きなソファーが私の現在地である。いや、たしかに、寝心地がいつもと違うなとは思っていた。思ってはいたけれどそれどころではなかったのだ。私が鈍いわけではない。多分。仮に拐われていたとしたらここに運び込まれるまで目を覚まさなかったということになるけれど。決して鈍いというわけでは、ない、はず。
 夢なら早く覚めてと目を閉じたまま願うも、依然として意識ははっきりとしたままだ。じゃあやっぱりこれは現実なのだろうか。明らかに人間ではない存在に囲まれているということも、寝ている間に知らない場所へ運ばれているということも。平凡な毎日も退屈だけれどさすがに刺激が強過ぎやしないか。
「Miss? Are you still tired?」
 頬をするりと撫でられて思わず目を開ける。よかった、刃物が付いている方の手じゃなかった。
 ところで、さっきからちょくちょく話しかけられているのは分かるんだけど、何を言っているのかがほとんど理解できない。自慢じゃないが私は日本語以外はからきしなのだ。洋画は吹替え派だし、英語の歌詞だとかも大体雰囲気でしか聴いていない。
 さすがに今の時代それはどうなんだと考えてちゃんと勉強しようと思ってはいたけれど、結局何もしないまま歳を重ねてしまっている次第だ。こんなことになるなら先延ばしにしないで勉強しておくべきだった。後悔先に立たずとはよく言ったものである。
 まあ今それを嘆いても仕方ない。とりあえず、何を聞かれたのかを考えてみようと思う。
 ミス、と言われたのは分かる。その後の単語は……なんだったっけ。タイヤ? いやさすがにそれはないか。でもそんな感じだった気がするんだけど……あっ、もしかして、タイヤードって言ってたのでは。それならなんとなく繋がってくる。
 おそらく、私が頑なに寝ようとしてるから疲れているのか聞いてきたということだろう。本当にそう言っていたのかは分からないけれど、大体のニュアンスとしては合っている……のではないだろうか。
 こちらを気遣っている、のかな。とりあえず無視も良くない気がするから会話をしてみることにする。平和に乗り切れるならそれが一番だ。――反抗的な態度を取ったらその瞬間殺される可能性も捨てきれない、という気持ちも正直あるけれど。
 しかし、この場合はどう返すのが正解なのか。疲れているかを聞かれているのなら、いいえ元気ですみたいなことを返せばいいのだろうか。元気って何だっけ……ええい、もうここは開き直って教科書英語でいってしまおう。
「えっと、……あ、アイム、ファイン……?」
「...Ha ha. You're fine. Ok」
 なんか物凄く馬鹿にされた気がする。なんだその笑いは。いや、色々な意味で酷いんだろうなって自覚はあるけど。私だって頑張ってるんですよこれでも。
 無駄にいい声しやがってと内心で悪態をつきながらじとりと目の前の男に視線を向けていると、一番人間らしい見た目をした長髪の男が口を開いた。
「Well...What's your name, Miss?」
 さすがにこれは私でも分かる。しかもこの人、今の一瞬で私の英語力のなさに気付いたのか、あえてゆっくり分かりやすく発音してくれている気がする。優しい。いや誘拐犯(推定)に優しいも何もという感じではあるけどそれは置いといて。
 とりあえず再び片言の英語で名前を名乗ると、長髪の彼は「」と呟いて頷いた。彼は自分を指して「My name is Joseph」と名乗り、次いで他の男たちを指し示す。
「This is Jack. And, this is Luchino」
 彼はご丁寧に全員の名前を教えてくれた。彼の名前がジョセフ……ジョゼフ? で、目の前にいる細長いのがジャック、そして向こうにいるトカゲ男がルキノ、というらしい。ううん、何だろうこの感じ。誘拐犯がこんな丁寧に自己紹介してくれるなんてことある?
 それに、このジョゼフと名乗った彼が向けてくるこちらを探るような眼差しの中にはどこか困惑の色が混じっているように思える。私にとっての彼らのように、彼らにとって私もまた未知の存在だったりするのだろうか。
 いやでも、さすがに人間が未知の存在ということはなさそうだし……どちらかというと、突然私が部屋に現れて向こうも驚いている、とかの方が可能性はあるかもしれない。あまりにも突飛な話だけれど既にこの状況が大概ファンタジーだからこのくらいならありえないこともないだろう。
 ぐるぐると考えていると、ジョゼフ――さん、がまた口を開いた。
「Are you a survivor?」
「さばいば……?」
 サバイバーって何。サバイバル的な響きはあるけど……うーん、生きる……いや、生き残り……? 別にそんな生死の境を彷徨うようなことにはなっていないし、違う、ということでいいのだろうか。駄目だ、英語力が無さすぎてどうしようもない。
「ええと、ノー……?」
「Umm...Then, a hunter...?」
「は、ハンター? ノー! ノーです!」
 なぜ猟師。脈絡がなさすぎる。こんな見るからに貧弱な女にそんな職が務まるとお思いなのか。モンスターをハントしたことはあるけれどそれはあくまでゲームの中の話である。
 私の返答を聞いたジョゼフさんは少し困ったような顔をして曖昧に頷き、他の二人と会話をし始めた。うーん、何を言っているのかさっぱり分からない。本当、もっと真面目に勉強しておけばよかった。
 しかし、この反応を見る限りやはりこの人たちが私を誘拐したというわけではなさそうだ。こちらを油断させる為の演技という可能性もなくはないけれど、さすがにそんな面倒なことをする意味はないだろう。仮にそうだったとして、それはそれで結構な名演技だと思うから犯罪なんかに手を染めてないでそっちの道に進めばいいと思う。
 特にする事もなく――何もできない、と言った方が正しいかもしれないけれど――何かを話し合っている彼らをぼんやりと見つめる。こんな状況でなかったらもう少し気分も上がったかもしれない。テーマパークのイベントだとか、そんな感じで。もし実際にこんなキャストさんがいたらわりと人気が出るのではなかろうか。
 ジョゼフさんはまず顔立ちが整っているし、硝子玉を嵌め込んだような透き通った瞳はとても美しい。陳腐な表現だけれど、吸い込まれそうな瞳というのはああいうのを指して言うんだろう。淡く光を反射するふわふわとした髪の毛も、どこかの貴族を思わせるような綺麗な服装も、なんというか、正統派イケメンという感じ。絶対人気出る。
 ルキノさんは好みが分かれそうだけど好きな人はとことん好きだろうなと思う。恐竜映画に出てきてもおかしくない見た目は男性からの人気も高そうだ。かく言う私もわりと好きなタイプである。個人的にこれで頭脳派だったり温厚な性格だったりすると更に好感度が高い。言葉が通じないし、その辺りがどうなのか明らかになることはなさそうなのが惜しい。
 ジャックさんは、そうだなあ……刃物を装備してるし、人外殺人鬼系が好きな人なら好きなんじゃないかなあ。……いや、申し訳ないのだけれど、ちょっと初見でのインパクトが強過ぎたせいか未だ彼への恐怖心が抜けていなくて、どうしても色眼鏡で見てしまうのだ。せめてあの左手をどうにかしてほしい。正直私はいつあれがこちらへ向けられるのかずっとひやひやしている。……でも、多分、ルキノさんよりはポピュラーというか、こんなシチュエーションで対面するのでなければ普通に好きな人は多そうだと思う。多分。いい声してたし。
 最早色々と感覚が麻痺してきているのか、そんなどうでもいい考えが頭の中を巡っている。やば、ジャックさんと目が合った。失礼なことを考えているのがバレたら何されるか分からないしここは愛想笑いで誤魔化して――やめてやめてなんでこっち来るのやめて。
「The way you watch me makes me blush」
 なに!? なんて!? こっち見るなってこと!?
「あっ、ぁ、アイムソーリー……! プリーズ、ドントキルミー……!」
「Hmm...? It's ok, sweetie. Don't be afraid...」
「ひっ……」
 何も分からないまま命乞いをすれば彼の左手が頬の上を滑って息を飲んだ。背の部分だから多分切れることはないのだろうが、まずこんな至近距離に刃物がある時点で緊張感が凄まじい。心臓が爆発しそうだ。
 必死に謝罪の言葉を繰り返すも、彼の手は離れていかない。刃は冷たいはずなのに触れている箇所がやたら熱く感じる。ああ、やっぱりここで殺されてしまうのだろうか。
「...Enough, Jack」
 涙が零れ落ちそうになったところで、呆れたような声が飛んできた。声の主であるジョゼフさんの非難めいた視線を受けてようやく手が退けられる。ありがとうございますジョゼフさんこのご恩は忘れません誘拐犯とか言ってすみませんでした。
 解放された安心感に目を閉じ、未だに暴れ回る心臓を服の上からおさえつけて息をととのえていると、ふわりと頭の上に何かが乗った。またジャックさんかとびくつきながら確認すれば、目の前にいたのは大きな体を屈めてこちらの様子を窺うルキノさんだった。
「...Are you OK?」
 存外優しげなその声に一瞬固まってしまった。すぐにはっとして首を縦に振りながらお礼を言えば彼も頷いて離れていく。嘘でしょなにそれ好きになっちゃう。今のはずるい。別の意味で心臓が高鳴るところだった。いやいや落ち着け、正気に戻れ私。
 落ち着いたところでちらりとジョゼフさんたちの方に目を向ける。ジャックさんに何かを言っているようだけれど当の本人はどこ吹く風という感じだ。あまりじろじろ見ているとさっきの二の舞になりそうなので二人から視線を外して部屋を見渡してみた。
 リビング、というには少し堅苦しい感じがする。でもソファーもテーブルもあるし、やはり日常的に使用している部屋なのだろうか。というかソファーにしても何にしても、本当に大きさがおかしい。いや、目の前の彼らが使うならこのくらいが丁度いいのかもしれないけれど、私はなんだか巨人の家にでも迷い込んだ気分である。強ち間違っていない気もする。
 しかしこんな部屋は映画の中でくらいしか見たことがないから新鮮だ。状況さえ違えば歩き回って観察していたのに。室内を眺めている内に少し気持ちに余裕も出てきて、そんなどうでもいいことを考えながら軽く息を吐く。立派な振り子時計を確認すると、時刻は正午を過ぎた辺りだった。状況が謎だしいつ寝たかも覚えていないとはいえこれは寝過ぎである。
 ……ちょっと待って、今更気付いてしまったのだけれど、私今思いっきりすっぴんなのでは。しかも着ているのは寝巻きでは。よれよれでないことだけが救いではあるけども、男の人の前でこの薄手のワンピース一枚というのはどうなんだ。うわやだもう穴に埋まりたい。
 誘拐犯だったなら逆にどうとも思わなかったのに。まあこの人たちの反応を見るに貧相な体のアジアンがどんな格好をしていようと何も感じることはなさそうだけども。それはそれで悲しいものがあるような気はするし私の羞恥心が消えるわけではない。世の中とは得てしてままならないものである。
 一度気になるとどうにも落ち着かなくなってしまって、何か羽織れるものはないかと視線だけでひっそりと周辺を探る。ソファーの上にブランケットのひとつでもあれば良かったのに。
 かちゃり。そんな軽い音がして目の前のテーブルに視線を戻すと、クロワッサンとカフェラテが置いてあった。
「えっ、」
 まさか食べ物が出てくるなんて思っておらず驚いて顔を上げると、今度は肩に重みが加わった。なんだなんだと見てみればオリーブ色の上着を羽織らされていて、何がなんだか分からずに挙動不審になってしまう。
「Are you warm enough?」
 何が言いたいのかを的確に汲み取ることはやっぱりできないのだけれど、なんとなく寒くないかみたいなことを聞かれたような気がする。多分暖かいって言った。私がちょっと腕をさすったのを見て寒いのだろうと気を回したというのか。何それかっこよすぎる。
 ともあれ、これで少しは気持ちも落ち着いた。彼には悪いけれど、少しの間有り難く借りることにしよう。
「あの、えっと……アイムオーケー、サンキュー……!」
 ひとまずお礼を伝えれなければと拙い英語を返すと、ルキノさんは軽く頷いて食事を促すような動作をした。お昼過ぎなのもあってかお腹が空いてきていたので頂いてしまおう。こんな時にでもお腹は空く。生理的欲求には抗えない。
「い、いただきます」
 クロワッサンを小さく千切って口に運ぶ。わ、美味しい。いくらでも食べちゃえそう。彼らに合わせてなのかそれなりの大きさだったしきちんと味わっていたはずなのに、あっという間になくなってしまった。それに、カップはやたらと大きいけれどカフェラテも美味しい。普通にどこかの喫茶店にでも来た気分だ。
 一息ついて「ごちそうさまでした」とカップを置いたところで、三人分の視線が自分に集中していることに気が付いて胃がきゅっとなった。慌てて佇まいを直していると何やら微笑ましげな表情をしたジョゼフさんがくすくすと笑う。
「Did you like it?」
「! イエス! ベリーデリシャス!」
「Ha ha, that's good」
 これは何を聞かれたのか考えるまでもなかったから勢いよく頷いたら更に笑われてしまった。いや、うん、今のはだいぶ子供っぽかったかもしれない。でも本当に美味しかったのだから仕方ない。
「So, where are you from?」
「えっ? ええと……ジャパン……でいいのかな……」
「Japan? Oh...Then, the same country as Michiko」
 みちこ。なんだか凄く馴染みのある響きのお名前が聞こえた。日本出身の人がいるのだろうか。というかここに住んでいるのはこの人たちだけじゃないのか。一体どういう集団なんだろう。
 でも日本人がいるのならもう少しちゃんと意思疎通ができるのではという希望が出てきた。女の人のようだし、もし話ができるのならしてみたい。
「She is busy playing the game. After the game, I'll call her」
「げ、ゲーム……?」
 ゲームって、テレビゲームとかのゲームのこと? あれかな、eスポーツ的な……? それとも何かの暗喩……?
 一体何なのだろうと首をひねっていると、いつの間にか隣に座っていたジャックさんに顔を寄せられて心臓が跳ね上がった。
「Would you like to try it?」
「ひえ、」
「Jack...」
 音も無く近寄ってきた上自然な流れで腰に手を回すのをやめてくださいセクハラです。あとその左手の刃をしゃりしゃり鳴らすの本当にやめてほしい。こわい。
 ジョゼフさんが眉間をおさえて溜め息をついた。おそらく普段から色々と苦労しているのだろう。彼らのことは何も分からないけれど、ジャックさんが自由奔放に好き勝手やっている様子はなぜか容易に想像できてしまう。やたらと馴れ馴れしく構ってくるのはフレンドリーというより人にちょっかいをかけるのが好きという感じがするし、日頃それがジョゼフさんたちに向けられていると言われても納得できる。
 ところで顔が近い。腰に回った手に自分の方へと引き寄せるような力が入っているのも感じる。だれかたすけて。
「...We'll go to meet Miss Nightingale for now」
 ソファーを挟んだ後ろからジャックさんの肩に手が置かれ、そんな声が降ってきた。
「Aaah...fine」
 やれやれとでも言いたげにジャックさんが立ち上がる。やれやれはこちらの台詞なんですがね。
 とりあえず助かった、と胸を撫で下ろす。ルキノさんもジョゼフさんも凄くフォローしてくれるのでとても有り難い。二人がいてくれて良かった。目が覚めてジャックさんしかいない状態だったら完全に詰んでいたと思う。
「Well, I should like to take you」
「きゃっ!? な、なに!?」
「Shhh...Stay calm...」
 流れるように抱き上げられて思考が止まった。いや、なんで。一体どこへ連れて行こうというのか。
 離してほしいけれど下手に暴れたら彼の左手がどこかしらに当たって怪我をしそうだし、落とされてもそれはそれで困る。
「Ok, ok...good girl」
 なす術もなく大人しくしていると、歌うような甘い声で囁かれて背中がざわりとした。さっきから思ってたけどやたら声がいい。そして本当に顔が近い。ちゃんと前見て。
 助けを求めるように後ろの二人に顔を向ければ、諦めてくれと言うようにゆるく首を振られてしまった。二人ともどことなくすまなそうな顔をしているし、さっきまで散々助けてくれたから責めることもできない。むしろ手間をかけて申し訳ないと謝りたいくらいだ。
 二人もついて来てくれてはいるから大丈夫だとは思うけれど、もし彼の自室に連れ込まれそうになったら顔を蹴ってでも逃げよう。鼻歌まじりに歩みを進めるジャックさんの腕の中で、ひっそりそう決意した。





2020.08.09



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