The walls have ears
休憩時間にカフェで同僚と他愛もない話をするのはナマエの日々の楽しみである。
いつものように数多の書類とそこに並ぶ細かな文字から束の間解き放たれた彼女は、お気に入りのカフェのテラス席に座り、今日からだという新メニューに舌鼓を打ち、食後のお茶を飲みながら同僚たちとの話に花を咲かせていた。
「そういえばナマエ、この前向こうの通りで公爵様見かけたよ」
「えっ!? 本当!? いいな~!」
同僚の言葉に、ナマエは羨ましそうな声をあげた。『公爵様』というのは彼女の憧れの存在であり、淡い恋心のようなものを抱いている相手でもある。仕事の関係で会うことはあれど、それ以外での接点は無いに等しい。
最近は水の上で目撃されることが増えている――あくまで以前と比べると若干多い、くらいではあるが――らしく、ナマエも『偶然会えたりしないかな』と期待しながら外を出歩く時間が増えていた。結果は言わずもがなであるが。
「私もオフの公爵様見たいなあ……」
「いや、絶対私たちよりナマエの方が公爵様のこと見てると思うんだけど」
「なんなら見てるどころか普通に会話してるよね」
「それはそうだけど……仕事のときとお休みのときとじゃさあ……こう……なんか……違うじゃん……」
不満げにそう漏らしながら、ナマエはカップに口を付けた。
彼女たちの言う通り、自分はまだ彼と接する機会が多い方であるということはナマエも自覚している。だが、自分が接しているのはあくまで仕事上の彼だ。世間話をすることはあっても、それも仕事の延長線であると言えるだろう。
「うーん……まあ、わからなくもないけど……」
その言葉に「でしょ??」と返して、はあ、と軽くため息をつく。
好いた人間の色々な面を知りたいというのはごく一般的な感覚ではないのだろうか。しかしやはり彼と自分ではあまりにも多くのことが違いすぎているし、多くを望みすぎるのもよくないかもしれない。それに、そんな感情を出しすぎて避けられるなんてことも、もしかしたらあるかもしれない。
そんな考えがぐるぐると頭の中で巡る。軽く頭を振ったナマエは、カップに残ったお茶と一緒にそれらを飲み込んだ。同僚たちは引き続き『公爵様』についての会話を続けている。
「っていうか、この前見て改めて思ったけど……公爵様って存在感すごくない?」
「わかる。ヌヴィレット様とかもそうだけど、なんかもう纏ってる空気が違うよね」
「すっっっごいわかる……」
同僚の会話にナマエがしみじみと頷く。
「公爵様がいるとそこだけ世界が変わるっていうか……顔立ちのせいなのか雰囲気のせいなのか分からないけど……ああでもやっぱり単純に身体が大きいっていうのもあるのかな……筋肉って偉大だよね……本当に……フォンテーヌの宝……」
「あー、スイッチ入っちゃった。相変わらずすごい勢いで切り替わるなあ……」
「まあ公爵様が素敵なのはわかるし、ナマエは元々逞しい人好きだもん、ね――」
うっとりとした表情で語り出したナマエに、同僚たちが呆れ顔で笑う。こうなってしまうと彼女はしばらく止まらなくなり、それをはいはいと流してやるのが彼女たちの常であった――のだが。
呆れ顔をしていた同僚の一人が、不意に言葉を詰まらせる。それに気が付いたもう一人も彼女の視線を追い、同じように顔を引きつらせた。
「最初はね、服がすごかったからそれで盛ってるのかな?なんて思ってたんだけど、近くで見たら全然そんなことなくて……胸筋すごすぎて真っ直ぐ立ってるのにネクタイと身体の間に空間ができてるのを見たときなんてもう、平静を保つのに必死で……さすがに場所が場所だからあんまり見ないようにはしてるんだけど……」
「ナマエ……」
語り続けるナマエをどうにか止めようと、視線が彼女の後方に釘付けになったままの同僚が小さく名前を呼ぶ。しかし依然としてナマエの口からは賞賛と欲望の言葉が流れ続けている。
「胸板は厚いし背中は広いし、多分こう、抱きしめようとしても腕回らないんじゃないかな……腕とか脚とかもバランス良く鍛えられてるし……はあ、あんな逞しい腕で抱きしめてもらえたら幸せだよね……本人には絶対言えないけどこんなこと……あっ、あと、いつも羽織ってる上着も素敵だけど、できれば室内では脱――」
「ナマエ!」
さすがにこれ以上欲望を垂れ流しにさせるのは色々まずいと踏んだのだろう、強めに彼女の名前を呼ぶとさすがのナマエも口を噤んだ。「なに? どうしたの?」と首を傾げる彼女は、目の前に座る二人の様子がおかしいことにようやく気が付いた。
不自然な表情で固まっている彼女たちの視線は、ナマエの背後に向けられている。そこで初めて、彼女は自身の背後に誰かが立っているということを認識した。テーブルに落ちているその人物の影をみとめ、その形がどこか見覚えのあるものであるような、と数秒考えて、ひとつの仮定が導き出された瞬間、彼女の心臓は盛大に嫌な音を立てた。
こわごわと、メンテナンスを怠ったクロックワーク・マシナリーのようなぎこちない動きで、ナマエが自身の背後を確認する。
そこに立っていたのは、かの『公爵様』――リオセスリその人だった。
「ぇ、あ、っ……?」
「うん? もう終わりかい?」
状況が飲み込めずに言葉にならない声をこぼすナマエに、リオセスリがにこりと笑みを浮かべる。そこでようやく何が起こっているのかを理解し、彼女はひゅっと息を飲んだ。
「こ、こんにちは公爵様! すみません私たちそろそろ休憩時間終わるのでお先に失礼しますね!」
「どうぞごゆっくり! あっ、ナマエ、私たちの分のモラここに置いておくから! じゃあまた後でね!」
ナマエが彼の存在に気が付いたのを確認した瞬間、同僚たちは席を立ち慌ただしく去っていった。ちなみに休憩時間が終わるまでにはまだある程度の余裕がある。
彼女が「え!? ちょっと二人とも!?」と声をあげるもそれが彼女たちを引きとめることはなく、その場には感情の読めない笑顔を浮かべるリオセスリと顔面蒼白のナマエが残された。
呆然としている彼女をよそに、彼はゆったりとした動作で空いた椅子に腰掛ける。
(え!? なんで座ったの!? っていうか今の聞かれてた!? 絶対聞かれてたよね!? 無理無理無理終わった最悪こんなの気持ち悪すぎて引かれてるに決まってるもうやだ胎海に飛び込みたい!!)
冷や汗が体中を流れていくような心地に苛まれながら、ナマエはぎこちなく笑って口を開く。
「こ、公爵様、今日はその、どうしてこちらに……」
「ああ、よく行く店に珍しい茶葉が入ったって聞いてね。今日は休みだし、自分の足で買いに行こうかと思ったんだ。そしたら、カフェの横を通ったときにあんたがいるのを見つけてな。挨拶をしてこうと思ったんだが……何やら面白そうな話をしていたもんだから、ちょっとそのまま聞かせてもらってた――ってところか」
彼の返答に、ナマエは『終わった』と内心で項垂れた。この言い方だと、ほぼ全てを聞かれていたと考えてもいいだろう。あの欲望に満ちた言葉の数々を聞いてもなお崩れない笑みが彼女には逆に恐ろしく感じた。
ナマエはちらりとリオセスリの様子を窺ってすぐに視線を逸らす。どこかばつが悪そうにしている彼女にくすりと笑い、彼が口を開いた。
「……『抱きしめようとしても腕が回らないかも』、だったか?」
「っえ!? えっとその、それは、違くて、そう、冗談っていうか、さすがにそこまでではないと思ってて、」
「ほう?」
下心しか含んでいない自身の発言を復唱されたナマエが顔を赤くしたり青くしたりしながら弁明になっているか定かではない弁明をしようと試みる。だが、口の端を持ち上げたまま目を細めたリオセスリに肩を跳ねさせてぶんぶんと手を振る。
「あっ、いや、えっと、でもその別に今でも充分――」
「試してみるかい?」
「…………えっ!!?」
自分でも何を言っているのか分からない状態になっている彼女へ向かってリオセスリが軽く腕を広げてみせる。
一瞬動きをとめたナマエが彼の言葉を咀嚼して思わず声をあげた。辛うじて残っていた理性で声量は抑えたがその勢いはなかなかのもので、リオセスリは喉を鳴らすような笑い声をこぼした。
「冗談だ」
そう言いながら手を下ろす彼に、ナマエは「そ、そうですよね」と安堵したような、それでいてどこか残念そうな声を返した。
「あ、あの……公爵様、さっきのは忘れていただけると、非常にありがたいというか……いや、でも、や、やっぱり気持ち悪い、ですよね……? その、もしあれなら今度から要塞へは別の方に行ってもらうように頼んでみるので……」
もごもごとナマエが彼にそう告げる。
仕事で関わりがあるというだけの人間があのような感情を抱いていたなど、彼からしたらただ気持ち悪いだけだろう。避けられても仕方がないことである。
唯一の接点を失ってしまうのはナマエにとって辛いことではあるが、彼に不快な気持ちを抱かせる方が耐え難い。そう考えての提案だった。
いつの間にか頼んでいたらしいお茶に砂糖を加えていたリオセスリは、スプーンを持ったままきょとんとした表情で彼女を見つめたかと思うと、ふっと軽く息を吐いた。
「別に気にしてないさ。気がおけない友人たちとの会話を黙って勝手に聞いてたのは俺だしな」
そうしてカップに口を付けたリオセスリが、思い付いたように「ああでも、気になるといえば――」と口にする。何を言われるのかとナマエはつい姿勢を正した。
「あんたはクロリンデさんや看護師長のことはさん付けで呼んでるだろう? 俺だけ『公爵様』ってのは距離を感じるなと前から思ってたんだ」
「……え?」
予想外の言葉に、ナマエは目を瞬かせる。
「俺のことも名前で呼んでくれると嬉しいんだがな」
そう言って笑んだリオセスリにナマエはひどく混乱し、頭の上にどんどん疑問符が積まれていくのが目に見えるようだった。
引かれて避けられるどころかむしろ近付いても構わないと許しを得たような気持ちになりかけて、いやまさかそんなと慌てて否定する。しかしそうでないというのなら今の言葉は一体どういう意味だったのだろうか。
「ところで」
「はい! 何でしょうか!」
今にもショートしそうなナマエへ畳み掛けるようにリオセスリが話しかける。思考が追いついていないながらもはきはきと返答する様子に笑いを堪えるような表情を浮かべながら、彼は彼女に問いかける。
「ナマエは今日何時に上がるんだ?」
「なんじにあがる」
「ふ、……すまない。仕事が終わるのは何時頃になる予定なんだ?」
抑揚のない声で問いかけを復唱され一瞬声を詰まらせたリオセスリは、もう一度言い回しを変えて問うた。ようやく思考が追いついてきたらしいナマエが、「ええと」と午前中に処理していた書類やタスクリストに並んだ項目を思い浮かべる。
「今日はそんなに込み入った事案はなかったはずなので……何もなければ六時くらいには帰れる見込み、ですが……」
「六時か」
彼女の返答を受けて、ふむ、とリオセスリが何かを考えるように顎に手をやる。しばらくそうしていたかと思うと、不意に「よし、わかった」と顔を上げた。
ナマエは彼の様子に再び頭へ疑問符を積み上げ始めた。そろそろ乗り切らずに転げ落ちてもおかしくない状態である。
「あんたには世話になってるからな。よければディナーを奢らせてほしいんだが……どうだ?」
「……でぃ、……え……えっ!?」
唐突な申し出に、再び彼女が困惑の声をあげる。もし今の彼女の脳内状況を映像として出力できたなら、大層前衛的な映影となっただろう。
ナマエの脳内が大変なことになっているのを知ってか知らでか、リオセスリは「嫌だと言うなら無理強いはしないが」と眉尻を下げてお茶を口に運んでいる。
「い、嫌なんてそんな! 絶対ないです! 是非ご一緒させてください!」
どこか寂しそうなリオセスリを見て咄嗟にナマエがそう口にした瞬間、彼の表情は一変し、悪戯が成功した子供のような顔をみせた。
「それはよかった」
その表情で、彼女は今の返答がリオセスリによって誘導されたに等しいものであることに気が付いた。――誘導されずとも、最終的な答えは変わらなかっただろうが。
(公爵様ってこんなあざといことするの? なに? ずるすぎない? オフのときの顔も見たいとは言ったけどさすがにちょっと刺激が強すぎる……戻れなくなっちゃうから程々にしてほしい……)
「そうだな……六時頃になったら、パレ・メルモニアの裏手にあるベンチで待ってる。それで構わないか?」
「は、はい! 大丈夫です! なるべく早く退勤できるようにします!」
頭の中でのたうち回っているのをどうにか抑えながら、ナマエはリオセスリの言葉にこくこくと頷く。
「それじゃあ、また後で」
彼も同じように頷いて、席を立つ。去り際に「ああ、そうだ」と思い出したように振り向いたかと思うと、片眉を上げて笑ってみせた。
「――上着は、脱いでおいた方がいいかい?」
「なっ……も、もう! 忘れてくださいそれは!」
「はは、善処しよう」
ひらひらと手を振りながら歩いていく背中をしばらく見つめていたナマエは、そういえばと慌てて時計を確認した。実に長い時間を過ごした気がしていたが、今から急いで戻れば遅れなく午後の業務を始められるくらいでほっと胸を撫で下ろす。
彼を待たせないためにも早く戻って仕事をしよう、と同僚たちが置いていったモラを手に取ろうとして、彼女は本来あるべき金額よりも多めにそれが置いてあることに気が付いた。リオセスリが頼んだお茶の分を差し引いてもまだ多いそれに、ナマエは思わず「何から何までずるすぎる……」と呟いた。
2025.11.23
サイト掲載 2025.11.26
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