白雪徹平とラッキースケベ



「や、あ、あの、すんません……通報だけは……通報だけはマジで……」
 ――事故だった。
 それは故意でもなく、下心があったわけでもなかった。むしろ彼には善意しかなかった。だがしかし、タイミングや当たりどころ、諸々の悪さが重なってしまい、最悪の結果へと繋がってしまったのである。


 事の始まりは数分前。彼――白雪徹平は足早に下駄箱へと向かっていた。思えば、この時点で既に彼の本日の運勢は底辺を彷徨っていると言っても過言ではなかった。昼休みは睡眠を取っていたら昼食を食べ損ね(これはある意味自業自得ではあるが)、学校近辺で不審者が出没したとかで突如開かれたホームルームはやたらと長引き、帰る前にせめて何か口にしようと足を運んだ売店では食べ物の類が全て売り切れており、仕方ないからコンビニでも寄ろうと決めた瞬間に教師から教材を運んでほしいと頼まれた。教材を運び終えたところで、朝からまともなものを口にしていない徹平は空腹で死にそうだと息を吐く。今日はスタジオ練習の日だからこれからコンビニに寄るならば少し急がなければならない。意図せず眉根を寄せていた彼を視認した周囲の生徒は思わずあがりそうになった悲鳴を押し殺し、廊下の端へ身を寄せた。そんな周りの様子にも慣れたように、少しだけ瞳に暗い色を乗せ、眉間を解すように手をやった。
 彼が階段を降りていたとき、事件は起こった。目の前を歩いていた女子生徒が、足を踏み外したのである。彼女は両手に荷物を持っており、手摺を掴むこともかなわないようであった。まだ階段の半分もいかない位置だ。下手をすれば怪我では済まないかもしれない。咄嗟に徹平は手を伸ばし、彼女の体を支えた。
「……あ、あれ……」
 落ちることを覚悟し、かたく目を瞑っていた少女がおそるおそるその目を開ける。踏み外した足は宙に浮いているが、体はその場に留まっている。逞しい腕が支えてくれていることに気付き、彼女は顔を上げた。
「っぶねー……大丈夫ッスか?」
「し、らゆき、くん……?」
 ほっとしたような表情で覗き込んでくる徹平に、ほんの一瞬だけ、彼女の呼吸がとまる。しかしすぐに平静を装い笑顔を浮かべたため、徹平がそれに気が付くことはなかった。えへへ、と気が抜けたように笑う彼女に彼の表情もゆるむ。
「ご、ごめんね。ありがとう。なんかぼーっとしてたみたいで……」
「いや、何ともなくてよかったッス。えーと、先輩、ッスかね……? 俺のこと知ってるんスか?」
 そういえば先程名前を呼ばれたなと尋ねる。その問いかけに彼女は控えめに頷いた。
「う、うん。ブレイスト、知らない人の方が少ないよ、きっと。あと、佐伯くんと巻くんも同じクラスだし…………え、えーと、それで、その、白雪くん……あの、もう、その、えっと、大丈夫だから……」
 ああなるほどと納得した徹平は、視線をあちらこちらに飛ばしながら困ったように告げる彼女の言葉に再び首を傾げた。大丈夫、とは、何のことだろうか。と、考えるが早いか、彼は未だに彼女の体に腕が回っており――その手が思い切り彼女の胸を鷲掴みにしてしまっていることに気が付いた。一瞬にして彼の顔が真っ赤に染まったかと思えば、すぐに血の気は引き、真っ青を通り越して真っ白に変わった。
「あ、わ、や、すみませっ、俺、その、わざとじゃ……!!」
 一応彼女がきちんと地面に足を付けていることを確認し、さっと手を引っ込めた。そして、現在に至る。
「や、あ、あの、ホントすんません……通報だけは……通報だけはマジで……」
 何度も頭を下げる徹平はここが階段でなければ土下座をしているのではないかというほどの気迫であった。彼と彼女以外の誰もその場にいなかったのが本日初めての彼の幸運なことだった。もし誰かがいたとしたら彼の(謂れのない)悪評が増えていただろう。
 顔面蒼白の徹平に慌てて彼女は首を振る。
「だ、大丈夫だよ! わざとだなんて思ってないし、あのままだったら私落ちてたし、それに」
 ああ、俺を一方的に悪者にしてこないなんて優しい先輩だなあ、と徹平がやや常識からズレたことを考えながら、それでも申し訳無さは隠しきれない顔で彼女を見る。
「全然嫌じゃなかったっていうか、白雪くんになら、触られてもいいっていうか――」
「へ、」
 ほんのりと頬が染まった彼女の言葉を飲み込みきれず、徹平が目を丸くする。一方の彼女は自分がいらないことまで口走ってしまっていることに気が付き、頬どころか耳まで赤くさせ、「あ、ちが、」と唇を戦慄かせた。
「ぁ、わ、忘れて!! 嘘だから!! ごめんね、ありがとう、じゃあね!!」
 そのまま踵を返して脱兎のごとく逃げ出した彼女の背中を追うことは、今の徹平には出来なかった。

***


「――で、結局そのままここに直行してきた、と」
「ッス……」
 その後、数分間そのまま固まっていた徹平であったが、「……練習、行かねぇと」とふらふら歩き出し、コンビニに寄ることもないままBLASTのメンバーが集まるスタジオに合流したのであった。
 心ここにあらずといった様子の徹平を不審に思った翼が彼に事情を聞き、なんとも言えない複雑な表情を浮かべる。
「はあ……なに? 女の子の胸を? 鷲掴みにして? で? 『白雪くんにならいいよ』って言われたって?」
「わざわざ復唱しないでくださいよ……」
「っはーーーー、神様は無慈悲だよなーーーーー俺にもくれよそういうのをさーーーーー!!」
 大きく溜め息をつきながら頭を抱え、地団駄でも踏みそうな勢いで呪詛を吐く。そんな翼の様子を徹平は呆れたように眺め、話したのは失敗だったかもしれないと内心後悔していた。
「っつーかそれ、現実か? AVの見過ぎじゃねぇのか」
「徹平、ダメだぞ! AVはAV、現実は現実だ! そこは混ぜないようにしないと!」
「いや現実だから困ってんじゃないスか! 何だよこれ! AVか!」
「落ち着け徹平。お前までボケ始めたら俺が疲れる」
 宗介と大和の言葉を受け若干錯乱した徹平の肩に翼が手を置く。「いやあんたもさっき大概だったぞ」という言葉をぐっと飲み込んで、徹平も落ち着きを取り戻した。
 さり気なく彼女のことを聞いてみようかとも考えたのだが、特定されてしまうと変に翼や宗介に絡まれてしまうかもしれないと懸念し口を噤む。しかしそんな徹平の意思を読んだかのように、翼がチューニングをしながら問いかける。
「徹平、その子先輩って言ってたけど、何年だった? 俺らと同じ?」
「えっ、あー……そッスね……翼先輩たちとクラス同じって言ってましたよ」
 ここまで聞かれたらどうせ言わずとも根掘り葉掘り聞かれてしまうのだろうと半ば諦めの念を抱き、素直に頷いた。へえ、と少し驚いたような顔をした翼は「名前聞いたりはしなかったのか?」と質問を重ねる。横にしゃがみこんで手元を見つめてくる大和を「近い」と追い払いつつ、徹平の方に視線を向けた。
「あー、名前までは……えっと、髪はこんくらいで、背はこの辺りで――あ、そういえば鞄に何かこう、ゆるキャラみてえなぬいぐるみのストラップついてました」
「……か」
「うん、俺もそうだと思う。そっか、ちゃんかー。意外……でもないな……うん……」
 徹平から特徴を聞いた宗介と翼がどこか納得したような顔で頷く。「意外でもない」という言葉に若干の引っかかりを覚え、どういうことかを問おうとしたが大和の声がそれを遮った。
か! あいつこの前すげー応援してくれたなー! いいやつだよな!」
 宗介と翼どころか大和とも知り合いだったらしい。応援してくれたというのはBLASTのことだろうか、それなら自分のことも知っていて当たり前だし、自惚れかもしれないが自分のファンとかそういう感じになるのだろうかと思案する。それならまあ、あの発言も分からないことはないのかもしれない、と考え、少し頬がゆるむ。いやでもそれにしたってあれはちょっと過激だったなと彼は一人頷いた。
「明日良かったなって言っといてやるか」
「いや、そこはさすがに触れないでおいてあげよう」
「そういやあの時も徹平がどうとか言っ――むぐ」
 何かを口走りかけた大和の口を素早く手で封じ、「んじゃそろそろ練習始めるぞー」と翼が楽器を構える。スタジオ練習の時間は無限でも無料でもないので全員が大人しくそれに従い、各々適当な位置につく。
 軽く手を握ったり閉じたりした徹平は思わずあの時の感触を思い出してしまい、それを打ち消すかのように頭を振ってスティックを強く握った。





2017.11.12



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