ある雨の日
ついてない。そう呟いた彼女の声は降り続ける雨の音にかき消された。
午後5時15分。今日も定時で帰れそうだと頭の中で退社後の予定(主に夕飯の献立である)を立てていたであったが、そこに上司の声が掛かった。部長である彼から「今日ちょっと残業してもらえる?」と頼まれ、取り立てて用事もなかったため特に深く考えずに了承したに後悔の念が襲いかかるのはほんの数秒後のことである。
膨大な量のデータ処理、それも本日中という期限付き。しかし一度頷いてしまったからにはやるしかない。確実に数時間はかかるであろう作業に頭を抱え、何が『ちょっと』だと心中で毒づいた。残業代がつくからまだマシだと自分に言い聞かせ、コーヒーを淹れるために給湯室へと向かう。雷のような音が聞こえた気がして目をやった窓の外は薄暗く、冬の足音が聞こえてくる気がした。
結局全てを終えたのは午後10時を回っていた。画面とのにらめっこからようやく解放され、会社を出たは大きく伸びをした。駅へ向かって、電車に乗って、コンビニで適当にお弁当でも買おう。そう決めて駅への道を進んでいく彼女の頬を、一粒の雫が濡らす。つい足を止めて上を見上げると、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてくるのを感じた。傘を持っていない彼女は、まずいなぁと顔を顰める。本降りになる前にせめて駅に辿り着かねばと足を早めたが、その瞬間。頭上から散弾を打ち込まれていると言っても過言ではないほどの勢いで雨が降り注いだ。
「うそでしょ!?」
思わずそう声をあげ、とにかく屋根のあるところ、と視線を巡らせる。服がどんどん水を吸い重くなっていくのを感じながら小走りで歩道を進み、目に入った店の軒下へ飛び込んだ。一分前と比べて随分と色の濃くなってしまった服を見下ろし、深く息を吐く。コートはまだいいかと判断したのは失敗だったかもしれない。あれを着ていればまだ被害はそこで食い止められていただろう、とずぶ濡れになった上着の上から腕をさする。ついてない。そうぽつりと呟いた。
通り雨であることを期待しては暫くその場に留まっていたが、雨脚は弱まるどころかむしろ勢いを増しているように思えた。自分の家のシャワーよりも強いんじゃないかと彼女は乾いた笑いを漏らす。ただ立ち尽くしているだけであるため体温はとっくに奪われ、時折歯ががちりと音を立てている。ここまで濡れているのだ、もういっそ駅まで走ってしまえばいい感じに体も温まるかもしれない。決意を固めた彼女が鞄を抱え直したのと同時に、右後ろにあった扉が開いた。
「店長、やっぱ雨やべーって! これじゃもう今日は客も来な――うぉっ!?」
涼やかなベルの音と共に顔を出した青年が、彼女の姿を目に入れて驚きの声をあげる。そこに人がいるとは思いもしなかったのだろう。幽霊でも見たかのような顔をしている彼に、は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「あっ……ごめんなさい。少し雨宿りをと思っていたんですけど、全然やまなくて……お邪魔になってしまいますし、退きますね」
「えっ、いや、おねーさんめちゃくちゃ濡れてんじゃん! 外寒いだろ!? ほら、入った入った!」
未だ降り続く雨の中を歩いていこうとするに青年はまた目を丸くし、思わずといった様子で彼女の腕を取った。「え、でも」と動揺を見せる彼女を「いいから!」と店の中へ引き込む。ちょっと待っててと奥へ引っ込んでいく彼をぽかんとした顔で見送った彼女は、はっとしてカウンターの中に立つ男性にぺこりと頭を下げた。男性は人の良さそうな笑みを浮かべて彼女に座ってくれと促すが、このまま座っては椅子を汚してしまうと彼女は首を振った。そこに先程の青年が何枚かのタオルを抱えて戻ってくる。
「悪いねおねーさん、新品のが見つかんなくて……あ、でも洗濯はしてあるから! とりあえずそれで我慢してくれ! 完璧に乾かすってのはできねーと思うけど、無いよりはマシだろ?」
ふわりと押し付けられたそれからは仄かに柔軟剤の香りがした。眉尻を下げながらも彼の好意を有難く受け取り、ひとまず彼女は鞄を拭いて椅子に置いた。毛先から水が垂れている髪の毛もおさえるようにして水分をタオルへ移していく。何気なくその動作を目で追っていた青年は、彼女が上着に手をかけたところでさっと目を背け、また店の奥へ姿を消した。
とりあえず出来る範囲で水気を拭き取り、は一息ついた。上着はなるべく乾くようにと店長と思しき男性がエアコンの風が当たる場所に置いてくれた。さてここからどうしたものかと考え始める彼女の前に、再び青年が姿を現す。その手には湯気の立ち上るマグカップがあった。椅子のことは気にせず座れと二人から言われ、はおずおずとカウンター席に腰掛けた。
「ほらこれ。あったまるぜ」
そう言って差し出されたマグカップと青年をが交互に見る。その視線の意味に気がついたのか、青年は「サービスな」とウインクをしてみせた。彼の言葉に彼女は慌てて首を振る。ただでさえ店先に居座りタオルまで貸して貰ったのにその挙句サービスだなんて申し訳無さすぎる。
「そんな、悪いです、ちゃんとお金払いますから!」
「いーっていーって。なぁ店長?」
青年が店長にそう問いかければ、彼も頷き「折角ですから、冷める前にどうぞ」と微笑んだ。ほらほらと急かす彼に諦めの表情を浮かべ、はマグカップを手に取った。じわりと伝わってくる暖かさと鼻をくすぐる甘い香りに自然と頬がゆるむ。軽く息を吹きかけて控えめに口に運べば、ようやく体温を取り戻したような心地になり、思わずほうと息を吐いた。
「……おいしい」
「レイ特製のホットチョコレート、なかなか飲める客はいねーから、おねーさんラッキーだぜ?」
まぁメニューに無いしな、と笑う彼につられて、も笑みを浮かべる。
「あの、折角なので、やっぱりちゃんと何か頼みます。夕飯まだ食べてなくて、お腹も空いてますし」
「お、そういうことなら任せてくれよ! 腕によりをかけて作るぜ! 店長が!」
ぱっと笑ってメニューを取り出した彼――レイは、一つ一つ指差しながらこれはこういう料理で、と説明していく。まるで客であるかのように「これも美味いんだよなぁ」と楽しげに話す彼を、もまた楽しそうに眺める。このお店が好きなんだなぁと彼女は心があたたかな気持ちに包まれていくように感じた。
「ちなみにオレのオススメは~……これだな! 値段の割に結構量もあって……あ、でも女の人だしそういうのじゃねー方がいいか」
主食となりそうなものを一通り説明した後、レイが悩ましげに指を彷徨わせてひとつの料理を指差す。が、失敗した、というような顔になり別のものを指し示そうとする。そんな彼の動作を遮るように「じゃあそのオススメのをひとつ」と彼女が告げた。その声に彼は唇の端をきゅっと上げた。
「オッケー! ってことで店長、これ一丁よろしく!」
「レイ君、居酒屋じゃないんだから」
呆れたように笑う店長は「では、飲み物の注文があれば彼に」とに笑顔を向け、調理に取り掛かった。
「おねーさん、酒は飲める方? リクエストとかあれば作るから何でも言ってくれよな! こう、ふわっとした注文でも全然オッケーだから!」
カウンターの中に戻り、グラスやボトルを整理しながらレイが笑う。そんな彼に「じゃあ何か甘いのをお願いします」と頼み、頷いてボトルを選び始めた彼の横顔を眺める。あれにするかと材料を揃え始めたレイを見つめ、が先程からずっと考えていたことを口にした。
「あの、違ったらごめんなさい。レイさん? って、OSIRISのレイさん……ですよね?」
彼女の言葉にレイが勢いよく顔を上げる。
「知ってんの!?」
「あ、合ってました? 最初に見たときからずっと気になってたんですよ。知り合いがバンドを組んでるのもあって、たまに行くんです、ライブハウス」
彼が同名のそっくりさんでなかったことに安心したように笑う。レイはといえば、思いがけず自分の所属しているバンドを知っている人物に出会えたからか、嬉しそうな表情でリキュールをシェイカーに注いでいく。
「なんだよー! 知ってたなら最初から言ってくれりゃいいのによ! ってことはもしかして、オレたちの曲も聞いてくれてたりすんの?」
「はい、この前のハロウィンライブの曲もすごくかっこよかったです」
「そう言ってもらえんの、すげー嬉しいんだよな。ありがとな!」
にこにこと笑いながら、完成したカクテルを差し出す。それをひとくち飲んで「おいしい」と顔をほころばせるに「そりゃよかった」とレイは更に笑みを深めた。
そこから話に花が咲き、デュエルギグの話やレイの所属するバンドの話、彼女の知り合いが組んでいるというバンドの話と尽きることのない話題で盛り上がる。彼女の知り合いが彼の知り合いでもあることが発覚し世間は狭いなと二人で笑いあっていると、店長が料理を運んでくるところだった。
「お待たせいたしました……レイ君、随分と盛り上がっているじゃないか」
「いやーそれが聞いてくれよ店長!」
弱まることのない雨脚のせいか他に客が来ないのをいいことに、店長も交えて会話を続けていく。が料理に舌鼓を打ち、新たにカクテルや料理を頼みまた会話をし、としているうちに時間は過ぎ、日付も変わる頃になった。時計を確認したが「じゃあそろそろ帰りますね」と席を立つ。レイが手渡してきた上着も暖房のおかげかそれなりに乾いており、冷たさに眉をひそめることもなく腕を通すことができた。
会計を済ませ、使ってくれと持たされた傘を手に扉を開ける。
「今日はありがとうございました。すごく楽しかったし、お料理もお酒も美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」
「また来てくれよ!」
軽く会釈をし、傘を開いて歩き出す。ついてない日だと思ったが、良い店を知ることが出来て逆にラッキーだったのかもしれないとは足取り軽く駅を目指した。
一方のレイは鼻歌混じりに片付けをしながら今度彼女の知り合いだという彼に会ったら今日の話をしてやろうかと考えていたが、あることに気が付き、「あっ」と声を洩らした。
「あのおねーさんの名前、聞いときゃよかった」
2017.11.20
▼BACK