斜陽に引かれた手の先は



 ――どうにも最近、気分が晴れない。
 車輪の軋む音に一つ舌打ちをして、ペダルを踏む足に力を込めた。小さな水溜りの上を通り抜ければぱしゃりと軽い音が誰もいない小路に響く。ゆるい傾斜の坂道の先、今はもう滅多に訪れることのないその場所には、褪せた思い出が眠っている。

***


「宗介、ご飯出来てるけど」
「……」
「……もしかして、目開けたまま寝てる?」
「……るせぇ」
 ふとした瞬間に重なる影。それは既に別れを告げたはずのものだった。いつからまた姿を現すようになったのか記憶は曖昧だが、おそらくそう昔でもないだろう。どうして今になって。どうしてよりによってそいつに重なる。まぼろしを振り払うように軽く頭を振り、立ち上がる。
 玄関へ向かえば後ろから「え、どこ行くの!?」と声が飛んできた。そちらを軽く一瞥し、また現れた影に舌を鳴らす。
「……風に当たってくるだけだ」
 下げられた眉尻を目に入れないように視線を外す。別に、そんな顔をさせたいわけではない。『乱暴だ』だとか『素っ気ない』だとか普段から散々言われてはいるが別にこいつのことは嫌いではないし、同じ時間を過ごすのは悪くないと思っている。だが、視界の端をちらつく影に心がざわついてどうしようもないのだ。

***


 風化した扉は引けば今にも壊れそうな音を立てて開いた。子供二人には広かった空間も、さすがにこの体では手狭に感じる。息を吸い込めば黴と埃の臭いがした。
 周囲に落ちていた木を組み合わせただけの秘密基地。今ではいつ崩れてもおかしくなさそうな天井も、椅子だ机だと張り切って運び込んだ木箱も、未だ変わらずここに残っている。大人から見ればお粗末でちんけなこの場所も、あの頃の俺たちにとっては世界で一番だった。
 最後にここで会ったあの時、本当は言いたいことがあったはずなのに、馬鹿正直にそれを口にできるだけの素直さがなかった俺はいつも通り素っ気なく「またな」とだけ言ってその場を去った。言いそびれてしまったあの言葉を伝えていれば、今のこのどうしようもない感情が湧き上がることもなかったのだろうか。そんなことを考えて、思わず嘲笑に近いものが口からこぼれる。今更何を考えたところで過去が変わるわけでもない。もう踏ん切りがついたと思っていたのだが、存外女々しいところもあったものだ。
 一つ息を吐いて服が汚れるのも構わず座り込む。朧気に浮かぶその姿を消すように、静かに瞼を閉じた。

***


 どれほどそうしていただろうか。ふと、人の気配を感じて目を開けた。こんなところまで人が来るなんて珍しい、とも思ったが、きっとその辺の子供が迷い込んだのだろう。特に何をするでもなくまた壁に寄りかかったところで、聞こえてきた声に目を瞠った。
「――、」
 それは、遠い昔に二人で決めた、忘れたことのない言葉だった。ここを訪れる度に口にしていた、二人だけの合言葉。天井に頭をぶつけるのも構わず勢いよく立ち上がり、思わず外へ出る。
「え、あれ、宗介……?」
「……な、んでお前……ここに……」
 目を丸くしてこちらを見るそいつは、先程出てきた家に住む女に間違いなかった。状況に頭がついていかず、まともに言葉を発することが出来なかった。
「いや、その、宗介なかなか戻ってこないし、買い物行っちゃおうと思って出てきたんだけど……なんだろ、懐かしいっていうか、なんとなくここに足が向かって……?」
 懐かしい? なんとなく? 一体どういうことだ。訳が分からない。だってこの場所は俺と、もうひとり、顔も名前も覚えていないあいつの、二人だけの場所だったはずだ。
 ひとつ、可能性が頭に浮かぶ。あの影が現れたときもそれだけはないだろうと考えることもしなかった、一つの可能性。
「……っていうか、宗介こそ、なんでここ知ってるの? あ、私が引っ越した後に見つけて使ってたとか?」
「引っ越し、た……?」
 頭の中でピースが嵌っていく音がする。あれも、これも、そう考えれば全て納得が行く。「嘘だろ」と零れた声は、笑ってしまうほど震えていた。





2018.03.27
サイト掲載 2019.10.14



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