爪先の魔法



 それは、不思議な色だった。
 彼の瞳のようにも見えるし、深い海の底のようにも見える。星が瞬く空のようでもあれば、光の差さない森の中のようでもある。様々な色が混ざり合って、ひとことでは言い表せない、なんとも表現し難い色を作り出している。全てを飲み込む闇のようだ、と思った数瞬後には光を覗かせ、そしてそれはまたすぐにどこかへ消えてしまう。――まるで、彼のようだ。
「……」
 ぼんやりと、そんなことを考えながらは彼の指先を凝視する。慣れた手つきでボルトを外し、細かい部品もひとつひとつ丁寧に磨き上げていく。元からそれほど汚れていないようにも思えたが、彼が手にした後の部品たちはより一層輝いているように感じた。
 魔法みたい、と内心で呟く。あの手には触れたものに生命力を分け与えるだとか、そんな不思議な力があるのかもしれない。あの爪の先も、魔法のひとつなのだろうか。そんなことがあるはずないのは彼女も重々承知しているが、もしかしたらと思わせてしまう何かが彼にはあるのだ。口に出したところで失笑されるのが関の山だろうから心のなかだけに留めているが。
 輝きを纏った部品たちがまた元のように組まれていく。分解しているときもそうだったが、手際が良すぎて何が起こっているのか全くわからない。本当に魔法のようだ。
「……おい」
 元通りに組み上がったそれをまた最後に軽く磨き、満足げに頷いて横に置いた彼――ダンテが、すいと視線を滑らせ口を開いた。彼の一挙一動をまばたきすらも惜しいと言わんばかりに見つめていたは、突然自分へ向けて放たれたその声に大げさに肩を揺らす。
「え、あ、はい……?」
「……視線が煩い。言いたいことがあるのなら言え」
 予想していなかった言葉にの目が丸くなる。気付かれていたのか、とも思ったが、確かにあれだけじっと見ていたら気がつくだろう。色々と感覚が鋭い彼ならなおさらだ。
 しかし、これはどう答えたものかと彼女は視線を泳がせる。ふと、先程まで彼女を惹きつけてやまなかった彼の指先が目に入った。不思議なもので、一旦は気が逸れていたにも関わらず、ひとたび認識してしまえば再びそこから目が離せなくなってしまう。
 言葉を発する直前で動きを止めたにダンテは眉根を寄せる。「聞いているのか」と声をかければ、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「あっ、はい! ごめんなさい!」
「何をそんなに気にかけている」
 目を細める様子すらも美しい、とまた別のことを考えそうになったは軽く頭を振ってそんな思考を追い出す。しばらく口をもごつかせていたが、真っ直ぐに向けられる視線に耐えきれず、「その、」と声を発した。
「マニキュアが、ええと、なんていうか……きれいだな、と、思って」
 綺麗などという表現はあまりにも陳腐なものではあったが、それ以上に的確で簡潔な言葉をは持ち合わせていなかった。彼女の返答が予想外だったのか、ダンテはきょとりと目を見開いた。なかなか目にすることのないその表情に、彼女は思わず「かわいい」と口にしそうになり慌てて口を噤む。そんなことを言えば不興を買ってしまうに違いない。
「……これか」
 ダンテが自分の爪先を眺め、そう呟いたかと思えば徐に立ち上がる。「待っていろ」と別室に姿を消したダンテをが不思議そうな面持ちで見送る。程なくして戻ってきた彼の手には小さな瓶が握られており、の前に立つとそれを落とした。
「えっ!」
 彼女は突然降ってきた瓶を床に落とさぬよう咄嗟に手を差し出し、受け止めることができるとほっと息をつく。これは何だと見てみれば、彼の指先のそれと似た色の液体が詰められていることに気付いた。ラベル等はなく、側面にも底にも何も書いていない。瓶の傾きにあわせてゆらりと粘度の高い中身が揺れる。
「あの、これ……?」
「気に入ったのなら持って行け」
「えぇっ!? いや、あの、別に私そんなつもりで言ったんじゃ……!」
 軽く言い放ったダンテと手の中の小瓶を交互に見遣り、ぶんぶんと首を横に振る。必死なその様子に彼が軽く鼻で笑った。
「一本減ったところで問題ない。代わりはいくらでもあるからな」
 そうは言われても、と彼女は複雑な顔をする。彼が使っていたものを貰ってしまうのはなんだか申し訳ないし、この色はきっと彼だから似合うのであって自分には不相応だろう。
 それに、はマニキュアというものを上手く塗ることができた試しがなかった。どうしてもムラができてしまったり、乾く前に何かに触れてしまったり、はみ出してしまったりその逆だったり。これまでに何度か挑戦したものの毎回何かしら失敗してしまい、ここ数年は爪の形を整える程度しかしていない。
「あ、あの……やっぱり貰えないです。私、どうしてもマニキュアってうまく塗れないし……それに、多分この色、似合わないし……」
 言いづらそうにそう口にする彼女を見て、ダンテはひとつ息を吐いた。そのまま部屋を後にする彼には怒らせてしまったのだろうかと眉尻を下げる。しかし再び姿を見せた彼の表情はどこか楽しげですらあり、の前に座り込むと「借せ」と右手を差し出した。
「へ、貸す? あ、返す、ですか? これを?」
「……それもだが、違う。お前の手だ」
 小瓶を受け取り、そのままの手首を捕まえる。突然のことに驚いたが思わず手を引っ込めようとするがそれはかなわず、動くなと制されてしまえば大人しくそれに従うほかなかった。
 手首を握っていた手がそのまま掌をすべり指先を持ち上げる。何かを確かめるかのように爪を親指の腹で軽く撫でられ、それ自体に感触はなかったがはぞわりと背筋を何かが駆けていったような感覚を覚えた。先程持ってきたのであろう幾つかの小瓶や道具の中から板状のものを取り出し、ダンテがの爪の表面をそれで磨いていく。一体何が始まるのかと内心ひやひやしながら様子を窺っていただったが、ここでようやく彼が何をしているのかを理解しはじめる。『マニキュアが上手く塗れない』と言う自分に、彼自身がそれを施してくれるということだろう。これはこれで申し訳ない気もするのだが、こうなってしまっては仕方ないと彼女は黙ってそれを見守ることにした。
 光を反射するようになった爪を湿ったコットンで軽く拭われる。ひやりとした感覚は注射を打たれる前のそれと似たものがある気がした。透明に近い液体を塗り始める彼の指先を見つめる。長い指はしなやかだが、皮膚は固いし関節もごつごつとしている。一見、あまり細かい作業には向いていないようにも思えるが、今こうして小さい刷毛を駆使して爪を彩っていく様は微塵もそんなことを感じさせない。右手を塗り終えると左手も出すように言われ、頷いてその手を預ける。
 薄桃色に染まった爪先にもうこれだけでもいいのでは、と思ったが彼はそう思っていないようで、並べられた瓶に手を伸ばした。赤ともピンクともつかない透明な色がの爪に乗る。結局さっきの色は使わないのだろうか、と眺めていたが、薬指に差し掛かると彼は一旦それまで使っていた瓶を退け、先程の瓶の蓋を開けた。
「少しの間そのままでいろ。触るなよ」
 『彼の』色に染められたのはその一本だけで、残りは全て同じ色で揃えられた。この色は似合わないと言った自分への配慮だろうか。全く違う色のはずだが、意外にもその色は他のものに馴染んでいるように思える(存在を主張してはいるが)。少しでも動かせば何かに触れてしまいそうだとはじっと固まっており、かちゃかちゃと瓶や道具を弄ぶダンテはそんな彼女に時々目をやっては可笑しそうにくつりと喉を鳴らした。
 数分後、ダンテは彼女の手を取り同じように色を乗せていった。少しずつ深みを増していく色に、は感嘆の息を吐く。自分でやったときとは大違いだ。女である自分よりも彼の方がよほど手慣れている、という事実に何ともいえない気持ちになりかけたが、そこは手先が器用かそうでないかの違いだと彼女は自分に言い聞かせた。
 一切の迷いもなく爪の上を刷毛が滑っていく。普段はスティックを握り荒々しく、しかし繊細に音を奏でるその手が、今はただ優しく壊れ物を扱うかのように自分の手に触れている。今更ながらじわりと首の後ろが熱を持ち始めた。
 彼の指が触れるとそこに熱が集まる気がする。これも魔法のひとつだろうかと熱を逃がすために思考を逸らす。指先を見つめていてはいけないと外した視線は、伏せられた瞳や長い睫毛が落とす影にとらわれる。数秒間そのまま見入ってしまい、これはだめだと部屋の隅を注視することにした。少なからず赤くなってしまっているであろう顔をどうにかせねばと彼女は静かに呼吸を深くする。
 なんとか顔の熱も引いてきた頃に、またしばらくそのままでいるように言われは安堵の息を吐いて頷いた。手を離したあとの彼の口元が面白いものを見たとでも言いたげにつり上がっていた気がしたがきっと見間違いだろう。そうであってほしいとは心の底から祈った。
 これで最後だと透明な液体をそれぞれの爪に乗せられ、の指先は艶やかに彩られた。これまでにないほど綺麗に仕上がったそれをは感動の眼差しで見つめる。
「す、すごい……お店でやってもらった人の爪みたい……ありがとうございます、ダンテさん……!」
 目を輝かせる彼女に、ダンテは当然だと言うように口端を上げた。つやりと光を放つ指先は何もしていないときよりも生き生きとして見え、やっぱり魔法みたいだとは笑みを浮かべる。
 嬉しそうな声を上げるをしばらく眺めていたかと思うと、ダンテが彼女の右手を取り、その薬指を口元に寄せた。
「……首輪代わり、といったところか」
「へ……」
 寄せられた指先に軽く音を立てて唇が触れ、少し間を置いて彼女の顔が真っ赤に染まる。その様子を見た彼が可笑しげに笑うものだから、は「か、からかわないでください!」とその手を引いた。
「も、もう帰ります! 途中でエデンに寄って自慢してきます!」
 怒っているのかそうでないのかいまいちよく分からないその発言にまたダンテが小さく笑い声をあげる。不満げな表情を浮かべながら荷物をまとめた彼女が立ち上がった。未だにその頬は赤いままである。ダンテもまたその腰を上げ彼女を見下ろすと、その頭に手を置きくしゃりと髪をかきまぜた。
「必要な時は言え。俺の時間をくれてやる。暇があれば、だがな」
「あ、ありがとう、ございます……」
 鍵の掛かる音を聞き届け、はエデンに向かうべく足を進める。少し歩いたところでふと立ち止まり、艶めく指先を見つめた。鮮やかな色に混じった暗い色。それはやはり不思議な煌きを放っており、ついさっきまで近くにいた彼を思い起こさせた。
 そっと、その爪の先に唇を寄せ、目を閉じて静かに触れる。少しの間そうしていたかと思えば、勢いよく目を開けて何をしているんだと頭を振り、きょろきょろと意味もなく周りを確認する。
 指先に残る感触を忘れようと強く握り込み、足早にその場を後にする。あれはからかわれただけで、深い意味はない。変に気にせず、いつも通りにしていれば良いのだ。わかってはいても、頬の熱は引かない。
 早足を通り越して、最早駆け足になって目的地へと向かう。心臓がうるさいのも顔が熱いのも、走っているせいだ。誰にするでもない言い訳を心のなかで繰り返し、はただ足を動かす。
 不自然に揺れた彼の部屋のカーテンに、彼女が気が付くことはなかった。





2017.12.17



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