昨晩は、随分と雪が降った。
 はじめの頃は柔らかかったであろう降り積もった雪は、現在は既に半分氷と化しているか踏み固められているかのどちらかだ。ざくりざくりと音を鳴らしながら、その上を進とは並んで歩いていた。
「どこもかしこも雪だらけだな」
「そうだねぇ。雪ってよりはもうほとんど氷って感じもするけど……」
 「この辺なんてこつこつ言うよ」と、は踵で歩道の端に寄せられた雪の塊を叩いてみせる。その言葉通り、白い塊は彼女の靴を飲み込むことなく硬い音を響かせた。
「ほんとだな」
 の動作を真似て、彼も縁石に沿うようにして積もっている雪を爪先で軽く蹴ってみる。がしゅ、と鈍い音を立てて雪が崩れ、靴の先が少し沈んだ。
「ん、こっちのはちょっと柔らかかったか?」
「進くんの力が強かったんじゃない?」
 目を丸くしながら足を退ける彼にがくすくすと笑う。「軽くのつもりだったんだがなぁ」と進も軽く首を捻りながら笑った。とん、と爪先を地面に打ち付ければ、靴についてきた氷の欠片が光を反射しながら落ちていった。
「、歩きづらくねぇか?」
 再び歩き出したところで、おもむろに進が口を開く。
 歩道の雪は数多の足跡が重なり、不規則な凹凸を生んでいた。踏めばすぐに崩れるようであればまだいいのだが、それなりに固くなっているところも多いようで、靴底を通しても若干の痛みを覚えることが度々ある。進は少しくらい足場が悪いところで然程気にしないが、彼はがこういった歩き難い道を歩くことを苦手としていることを知っていた。
 不意にかけられた声には首を横に振る。
「大丈夫だよ。まぁ、歩きやすいとは言えないけど……」
「そうか? 凍ってるとこも多いし、良かったら手でも腕でも貸すぞ?」
 「お前、よく転ぶからなぁ」とからから笑う進に、彼女は頬を膨らませる。そんなに転ばない、と反論しようとしたが、よくよく考えると確かに毎年数回は凍った道で足を滑らせている気がして、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
 思い当たる節があるために言い返しこそしないがどこか不満そうな顔をしているの頭を進がぽんぽんと撫でる。子供扱いをされている気がして、は頭に乗った手を押し返すように背を伸ばす。その仕草はより『子供っぽさ』を助長しており、可愛らしく思えて進は口角を上げた。
「と、ところで! 次のライブって来週だったよね?」
「ん? ああ、そうだな」
 乗せられた手を持ち上げながら話を逸らすようにが言う。話題を変えたい彼女の思惑に気が付きながらもあえて流れを元に戻すようなことはせず、彼は同意するように頷くと、彼女の頭をひと撫でしてから浮かされた手を引いた。
「もう曲って決まってるの?」
「大体は決まってっけど、まだ細かいとこは決まってねぇな。あいつら、演りたい曲聞いてもわりと『何でもいい』ばっかだしなぁ」
 軽く息を吐いて頭を掻く進を見て、は「そうなんだ」と返す。そのまま「やっぱブラマス辺りは入れときたいよな」などと次のライブの構想を練り始めた彼を、小さく微笑みながら見つめる。魚のことだとか、音楽のことだとか、好きなことについて考えているときの進はいつだって眩しく見えるし、そんな彼をこうして眺めている時間がは好きだった。
「そうだ、は何か聴きたい曲あるか?」
「えっ?」
 不意に視線がかちあったことに驚き、気の抜けた声が彼女の口からこぼれる。その声とほぼ同時、まるでタイミングを図っていたかのように、踏み出した足が勢いをつけて浮き上がった。
 ――あ、これは転ぶな。
 瞬時に何が起こったのかを理解したは、せめて顔面から突っ込むのは避けたいと手を前に出そうとする。だが肉体は脳ほど俊敏に動いてはくれないようで、ああ無理だ、と反射的に強く目を閉じた。
「っ、と……大丈夫か、」
 思っていたよりも随分と柔らかな衝撃に、唯一動かすことの出来た目蓋をそろりと持ち上げる。そんなの目に飛び込んできた色は紛れもなく進が着ていたコートのもので、彼女は体を硬直させた。目を瞑ったあとに引っ張られるような感覚がしたから、きっと咄嗟に彼が引き寄せてくれたのだろう。抱きしめられているかのような体勢はそのせいだと分かってはいるものの、頭上から降ってくる彼の吐息や衣服ごしでも分かる逞しい体つきにふわりと鼻腔を擽る彼の匂い、そういったものが思考を支配してうまく声を出すことが出来ない。上着すらも突き破ってくるのではないかと思えるほどに心臓が騒いでおり、は今が冬でよかったと心底安堵した。
 しかしそれもほんの数秒、状況が飲み込めず頭が働いていなかったとも取れるが長くこのまま動かないのも不自然だろう。気付かれぬように深く息を吸い込み呼吸を整える。その際また彼の存在に意識を持っていかれそうになったがどうにか堪えて、軽く胸板を押して互いの体の間に空間を作る。
「……うん、大丈夫。ごめんね、進くん。ありがとう」
 いつも通りの声が出せていることに内心胸を撫で下ろしながら、「びっくりしちゃった」と笑ってみせる。進もそんな彼女の様子に苦笑した。
「ったく、だから言ったのによ」
 仕方のないやつだとの頭をくしゃりと撫でたかと思うと、「ほら」とその手を彼女の前に差し出す。が突然目の前で広げられた掌と彼の顔を交互に見れば、進はにっと白い歯を見せた。
「手、貸してやるって言っただろ。腕のがいいか?」
「えっ、あ、えっと、手、で、大丈夫……です」
「はいよ」
 体の横に下がっていた彼女の左手をすくい上げ、「つうか、なんで突然敬語なんだよ」と笑いながら何事もなかったかのようにその手を引く。地面が滑らないことを確かめつつ足を踏み出したの様子を見て、彼もまたゆっくりと歩き出した。
「で、さっきの話の続きなんだけどよ」
 話題はが転倒する直前にしていたものに戻り、進がに聴きたい曲はあるかと尋ねる。先程よりも少しだけ歩く速度が落ちていることに気がついた彼女は嬉しさやら申し訳無さやらを感じながらも「そうだなぁ」と幾つかタイトルを挙げていく。そうして表面上はいつも通りに、和やかな雰囲気で会話は進む。しかし、の意識は半分ほど繋がれた手の方に向いており、彼女はどうにかこうにか平静を装っているだけにすぎなかった。
 手を繋ぐというのは、彼女たちにとってそれほど珍しいことではない。昔からの癖のようなもので、人混みを歩く時など、進――もう一人の幼馴染であるレイもそうであるが――は今でも自然にの手を取って歩くし、もそれを受け入れている。だが、先程の一件がどうにも後を引いており、は彼が『好意を寄せている相手である』ということをどうしようもなく意識してしまっていた。
 手袋が無ければ今頃尋常じゃない量の手汗に引かれていたかもしれない、とは彼と自分を隔てる布地に感謝した。いや、引かれるくらいならまだいい。そこからこれまで必死に誤魔化していたものに気付かれてしまったら。それだけがただ恐ろしい。こうして自然に手を繋いで、何でもない顔で会話をして。それで充分だ。望み過ぎればきっと全てが壊れてしまう。
「――よし、これで曲はほとんど決まりだな。今日の練習の時に言ってみるか」
「ふふ、リクエスト聞いてもらえるなんて贅沢だなぁ」
「は俺たちの一番のファンだし、それくらいはな。誰かの意見が欲しかったってのは本当だしよ」
 彼らの隣にいて、たまにこのくらいの小さな『特別』をもらうことが出来るならば、それが一番幸福なのだろう。永遠に、とは言わないが、せめて自分がこの場所に居られるうちは、ぬるま湯のような幸せに浸っていたい。――彼の隣に立つひとが、現れるまでは。
 穏やかな日々を守るために、彼女はまたどろどろと渦巻く感情に蓋をする。
 心の奥底に余計なものを閉じ込めながら、は軽く躓いたふりをして繋がれた手にほんの少しの力をこめた。





2018.01.26