とある日の午後。オシリスの練習もないこの日、レイは公園の隅でギターの練習をしており、はそれを横で本を読みながら聞いていた。そろそろ休憩にしてどこか適当な喫茶店にでも行くかとレイが誘えば、は二つ返事で了承した。ギターケースを背負って歩きだした彼に、思い出したようにが声をかける。
「ねえレイくん」
「おう、どうした」
「レイくんみたいなこと言うんだけど、引かないで聞いてもらえる?」
「唐突かつ失礼だな!」
 『自分みたいなこと』がどういったものを指しているのかは分からないが、とりあえず良い意味で言われているとは考えられず、レイは思わずそうつっこんだ。それについて特に返事を返すこともなく、彼女は続ける。
「あのね」
「お前最近オレの扱い雑じゃないか? 終いには泣くぞ?」
 昔からお互いにこのようなやり取りをしているため内心それほど気にしてもいないが、少々大げさに悲痛な顔をして見せる。そのわざとらしい表情に、も眉尻を下げ、肩をすくめた。
「それについては本当にすまないと思っている」
「その台詞最近どっかで聞いたな。すげー聞いた。なんかアメリカ的な世界で」
「じゃなくて! 聞いてほしいの!」
「はいはい、どうしたんだよ」
「その……あのね? 進くんの胸って……どんな触り心地だと思う……?」
 ためらいがちに視線を彷徨わせた後、小さく、様子を窺うようにして呟かれた言葉にレイは目を瞬かせた。少しの間を置き、そっと熱を測るかのようにの額に手を当てる。特に熱はないようだ。「何してるの」の声には「別に」と答えた。
「お前実はまだ魔界仕様なのか? ちゃんと洗脳解けてるか? 京ちゃん呼ぶか?」
「待って! 違うの! やめて! 聞いて!」
「いや何がどう違うんだよ……」
 さり気なくスマートフォンを取り出そうとするレイの腕をおさえ、は勢いよく首を横に振った。犬みてーだな、と内心で笑い、少し乱れた髪を整えてやる。彼女の髪に指を通しながら、レイは呆れたような声で先を促した。
「私この前レイくんの胸を触ったじゃない?」
「ああそうだな。っつか揉んだな。事実だけど改めてこう聞くとやべーな」
 先日のやり取りを思い出し、彼は薄く笑った。異性の胸を揉む前に自分が揉まれるとは思わなかったなと遠い目で空を見つめる。しかし案外ああいうのも悪くはないかもしれない――などと変な方向に思考を飛ばしている彼の横で、彼女は話を進める。その声でレイの意識は引き戻され、オレは何を考えてんだと軽く項垂れた。
「その時の感触がこう、なんていうかこう、意外と弾力があったというか、とにかくなんか、思ってたのと違ってびっくりしてたんだけど……昨日やってたテレビ番組でアイドルが結構体格の良い人の胸筋を触っててね」
「待て待て待て。全然話が見えねーってかもうどこからつっこめばいいのかすらわかんねーよ! 何を見てんだお前は!」
「ふ、普通のゴールデンの番組だよ! やらしいやつとかじゃないからね!」
 レイのつっこみに慌ててそう言い訳をする。その前の台詞もだいぶ気になりはしたが、いちいち突っ込んでいては話が進まないと判断し、彼はわかったわかったと頷く。そんな彼を見て一息つき、彼女はまた口を開いた。
「それで、その、結構柔らかそうですごいなーって見てたんだけど……そこで、そういえばレイくんもわりとそうだったなあって思ったら……ふと進くんのことを思い出しちゃって……気になって気になって……」
 もごもごと、次第に小さくなっていく声。最後の方は蚊の鳴くような声と言っても過言ではなかったが、レイの耳は全てを拾い、そしてその目は複雑な色を浮かべた。何と言ったものかと考えはしたがとりあえず素直に自分の考えを彼女に向かって述べる。
「……お前それ……思春期の男子かよ……完全にAV見て好きな女の子思い出しちまう的なアレじゃねーか……」
「……知的好奇心って言って……」
「ちょっと頭良さそうな言い方したところで変わんねーよ……」
 呆れたような声色にが耐えきれず顔を覆う。その手はすぐに「あぶねーから前見て歩け」というレイの手によって引き剥がされた。
「うー……だから引かないでって言ったのに……」
「いやこれは引いてるっつーかなんか、なんだ……こう、いや……言葉にできねーわ……」
 例えるならば、そう、クラスメイトの女の子の性事情を知ってしまったような、兄弟の『そういう場面』を目撃してしまったような、そういう類の気まずさのような何かだろうか。しかし、さすがのレイもそれをに告げることはしなかった。今の彼女にこれ以上羞恥心を煽るようなことを言えば羞恥で死んでしまいそうだ。赤くなっている彼女の頬を軽くつつけば、押し返されて指が頬に沈んだ。
「そんなに気になるんならいっそ頼んでくればいいだろ」
「レイくん、それが私にできると思う?」
「いや開き直んなよ! オレかお前は!」
 心なしか胸を張って発せられた言葉にそう返してから、ここで『オレかお前は』というのもどうなんだと内心溜め息を吐いた。確かに自分も同じようなことを言われたらのような返し方をする気がするが、よくよく考えるとあまりにも情けない。自分で言っておきながら心に傷を負った気分である。
「それは嫌だなぁ……」
「本当に失礼な奴だな!!」
 返ってきた言葉に今度はその頬を抓る。「ほーりょくはんらい」と騒ぐ彼女に「何言ってんのかわかんねーよ」と笑ってその指を離した。
「っつかそれをオレに言ってどうすんだよ。オレに進の胸揉んでこいって?」
「ううん、なんかとにかくこの行き場のない気持ちを吐き出したかっ――レポしてくれるの!?」
「しねーーーーよ!!! 言葉のアレだよ!!!」
 何気なく発した言葉にが思いがけず食いついてきたため食い気味で否定する。同性の友人の胸の揉み心地を異性の友人に報告するというわけの分からない状況を軽く想像してはみたが、いやこれはないな、とレイは一人頷いた。そんな狂気に満ちた光景は事あるごとに飛ばされる色々と意味不明な世界だけで充分だ。
「……吉宗くん達とはエッチなビデオの感想言い合ったりしてるのに……」
「難易度が違いすぎんだろーが……男同士でエロい話すんのとはわけがちげーよ……」
 ちぇー、と頬を膨らませるに些かげんなりとした表情でそう告げる。
 実際進に頼んだところできっとドン引きをされるとまではいかないだろうが、きっと結構な度合いで心配されるだろうし、なんなら酒を酌み交わしながら慰めてくれるだろう。さすがに心が痛い。色々な意味で。想像だけで落ち込んでしまいそうになり、レイはいかんいかんと頭を振った。
「うう……もう今進くんが目の前にいたら絶対胸ガン見しちゃう……今日会う予定なくて良かった……」
「いや、お前それ」
 が再び顔を覆いながら首を振るのを「だからあぶねーって」ととめる。そのあとに心底安心したといった風に呟かれた台詞でレイの頭の中によぎったのは、『俺、この戦争が終わったら結婚するんだ』だとか『こんなところにいられるか! 俺は部屋に戻る!』だとかそういった類のものであった。軽く笑ってそれを指摘しつつ、公園の出口の門をくぐり抜ける。
「おっ、レイにじゃねえか! 二人揃って散歩か?」
「完全にフラグ――だよなー……」
 丁度そこを通りがかったのは話題に上がっていた小金井進そのひとであり、レイは思わず不自然なかたちで固まりそうになった顔面を自然な笑顔になるように表情筋を動かすことに努めた。は横で全身を硬直させ口を金魚のように開閉させていたが。
「し、ししし、しんく、んっ……!」
「おう、進! これから喫茶店でも行こうかと思ってたんだけど、お前もどうだ?」
 壊れたCDプレーヤーのような声を発している彼女の背中をひっそりと叩いて自然な言動を促しつつ、進の注意をそちらに向けぬように話しかける。微妙な緊張感と気まずさを抱え、何故自分までこんな気持ちになっているのかと心の中で首を傾げた。
「そうだなぁ、今日はもうする事も終わってるし……それじゃ、俺も同行させてもらうとするぜ」
「し、進くん、えっと、おは、じゃない、おつかれさま! きょ、今日はお店のあの、あれとか、こう、いいの?」
 一応文章を口にできるようになったは良いが辿々しいを通り越して挙動不審になってしまっているに、レイはあちゃーと頭を抱えた。人の心の機微に聡い進が、こんなにもあからさまな幼馴染のこの言動を見過ごすはずがない。
「ん? 今日は色々あって臨時休業にするって言ってなかったっけか?」
「えっ、あ、そ、そうだったね! わ、忘れてた!」
「……なぁ、なんかさっきからおかしくないか?」
 レイの思っていた通り、進はの様子に訝しげな表情を浮かべた。彼女はといえば、その言葉に盛大に肩を跳ねさせ――レイの目には『ぎくり』という効果音が浮かんでいるようにすら見えた――、千切れるのではないかと思わせるような勢いで手を振る。
「へ!? い、いや、そんなこと全然ないよ! まったく! 本当に!」
「いや、絶対何か隠してるだろ。さっきから全然こっち見ねぇし……何かあったか?」
「そんな、何かあったとかそういうのは、全くなくてですね、うん」
 進が心配そうに眉を寄せ、の顔を覗き込む。ひゅ、と息を飲む音がレイのところまで聞こえてきた。見ないようにしていた相手の顔が眼前数センチにあったらそりゃそうなるよなとレイはどこか見当違いなことを考える。
「じゃあどうしたんだよ」
「なんかが進の胸揉みてーんだってよ」
 これ以上は見ていられないし上手く誤魔化せる気がしない。そう判断し、レイは先程まで話していた内容を極限まで簡略化して進に伝えた。
 が慌てふためいてその口を塞ごうと手を伸ばしてきたが呆気なく受け止められる。
「わーーーーーっ!!! ちょっとレイくん!!!!」
「……胸? 俺のか? なんでまたそんな――魔界の後遺症か?」
 レイの言葉を聞いた進がきょとんとした表情で二人を見比べ、レイがしたのと同じようにの額に手を当てた。少し熱があるんじゃねぇかと手を離したが、それは勿論体調からくるものではなくこの一瞬で上がったものである。
「二人して!! もうそのことは忘れてよぉ!! ばかーーーー!!! レイくんのばかーーーーーー!!!」
 自我の無い状態で引き起こされた悲劇を持ち出され、羞恥での目に薄く膜が張る。レイの胸板をぽこぽこと叩くが、彼は痛がる様子も見せずに彼女の頭に手を乗せた。そのままゆるく撫でてやればの手は叩くのをやめ、表情を隠すように俯く顔に貼り付いた。
「いやだってお前、めちゃくちゃ誤魔化すの下手だからよ……中学男子のがまだマシな対応するぞ……」
「うう……死にたい……死にます……どうか一思いに生ガツオぶっ刺してください……お願いします……」
 は顔を手で覆ったままそう呟く。仕方のないこととはいえ悪いことをした、と罪悪感を滲ませていたはずのレイの表情がその言葉で一転し、にやりとしたものになる。
「それ聞きようによっては下ネタだよな」
「レイお前……」
「じ、冗談だよ冗談!」
 呆れたような声と視線がレイを刺す。進は「お前、本当そういうところだぞ」と軽く溜め息をついた。
 レイはこういう時のフォローは上手い癖に、どうもすぐにそういう方向に持っていきがちなところがある。さすがに深刻な場(もっとも、彼女の中では現在の状況も至って深刻ではある)ではそういったことは言わないが。
「うっ……二人とも私より胸が大きいからってぇ……ううう……」
「何があったんだよ、レイ」
「うーん……さすがにオレの口からはもう何ともな……」
 が発する言葉は若干方向性を変えているが、それはさておき、この状況をどうしたものかと進はレイに尋ねる。しかし詳細に説明したところで彼女の傷を抉るだけだろうとレイは口ごもった。彼には親友の傷を抉り塩を擦り込むような趣味はない。
 彼の様子に進も深くは聞かない方がいいのだろうと察し、ひとまずレイの言っていたことをさせれば良いのではと口を開いた。
「あー……なんだ? 俺の胸を揉ませりゃいいのか?」
「へ……」
 思いがけない進の台詞で、の口からは間の抜けた声がこぼれる。言葉の意味が飲み込めずに思わず顔を上げてしまったが、これでは彼の胸を触りたくてしかたがないようではないかと再び彼女の顔に熱が集まっていく。今のは声をかけられたから条件反射で、などと、誰も聞いてはいないのに心中で言い訳をした。
「ほら、減るもんでもねぇし、好きにしろよ」
「え、あっ、そん……む、むりっ……」
 触りやすいようにか上着の前を大きく開く進を直視できず、は後ずさる。そんな彼女の両肩を後ろから支え、レイは彼女と進をしっかりと向き合わせた。
「いやもうここは素直に揉ませてもらえよ! こういうのは勢い第一! 出来るときにやるべきなんだよ! チャンスを逃すな! いけ! 揉みしだけ!!」
「なんでお前が一番イキイキしてるんだ……?」
 の後ろからエールを送るレイの勢いに、進が若干困惑したように声をこぼす。物理的にも精神的にもレイに背中を押され、おそるおそるといった風に彼女は手を伸ばした。
「う、うー……じゃ、じゃあ、失礼して…………うわ、や、やわ、え、すご……」
 指先で触れた進の胸の感触に驚きを隠せず、感嘆の声をあげる。一度触ってしまえば羞恥心よりも好奇心が勝ったのか、言葉にならない声を発しながらふにふにと場所を変えてはつつくというのを繰り返す。その様子が面白かったのか、進が喉の奥で笑いながら胸筋に力を込めた。
「わっ、硬くなっ、わあ……うわ……」
「言いたいことは分かるし実際そうなんだろうけど言葉だけ聞くとなんかアレだな……」
 の声を聞いたレイが微妙な表情を浮かべる。
 暫くそうして進の胸を触っていた彼女が、徐にもう片方の手で自分の胸に手を当てた。かと思えば、深く溜め息を吐き、絶望といった表情を浮かべている。
「…………うわあ……」
「そこで自分の胸を触るな! 比べんな!」
「なんか……私のと満足感が全然違う……ぜんぜん……」
「満足感とか言うな!!」
 堪らずといったようにレイが声を荒げる。そこで彼女の手は離れ、進が「もういいのか?」と聞くと彼女はこくこくと頷いた。その目は虚空を見つめており、満足感やら悲壮感やらをごちゃ混ぜにしたような例えようのない色に染まっていた。
「ううん……知的好奇心は満たされたけどなんだろうこの……この……」
「、この前からやたら気にしてっけど、別にそんな気にすることはないんじゃねぇか?」
 肩を落とす彼女の頭に進が手を乗せ、軽く撫でるように髪の上を滑らせる。
「俺と比べたところで、人によって相手に求めるもんは違うだろうしな。あんま深く考えすぎんなよ」
「進くん……うん……なんか、色々ありがとう……変なこと頼んでごめんね……」
「気にすんなって! まぁ、俺のなんかでよけりゃいつでも貸すぜ?」
 に、といたずらっぽく笑って見せる進に、もようやく笑顔を浮かべる。それを確認した進はぽふぽふと頭を軽く叩くようにし、最後にくしゃりと撫でてからその手を離した。屈めていた背中を伸ばし、二人に向き直る。
「よし、今日はうちで鍋でもしようぜ!」
「いいじゃんいいじゃん! そうと決まれば喫茶店は中止にして買い出しだな!」
「今日はの食いたいやつにするか! リクエストは何鍋だ、?」
 進路をスーパーのある方向へと定め、一行は楽しげに足を進める。何が良いかと聞かれたは、少し考えた後に口を開いた。
「……豆乳鍋が食べたい」
「お、いいねぇ!」
 じゃあ味付けは、具材は、と歩きながら各々が食べたいものを列挙していく。大体買うものが決まったところで、時間を確認したレイが「あっ」と声をあげた。
「ちょうどそろそろタイムセールじゃねーか!? 見てろよ、良い肉を勝ち取ってやるぜ!!」
 ギターケースを背負いながらも、軽々とした足取りでレイが一歩先を行く。今夜も騒がしくなりそうだと進とは顔を見合わせて笑った。





2017.11.18